第31話
佐野さんは車に乗り込んで以降、一切キスの事には触れてこないまま帰宅。柏原さんもそうだし、案外ノリでしただけで、皆そういうものだったりするのだろうか、なんて考えが頭をよぎる。
佐野さんはモコモコのパジャマに着替えてオレの部屋にやってくると、いつもの陽気なテンションでソファの上であぐらをかき、酒を飲み始めた。
「そこでボクは言ってやったんだぁ。『うぉおい! それはボクのだぞぉ!』ってね」
既に泥酔状態の佐野さんはタルトちゃんの口調で過去の武勇伝を語っている。もうこれが何の話なのかわからないくらいにはずっと一人で喋っているが、これも職業柄そういうものなのだろうと思うと納得だ。
「佐野さん、そろそろ今日はいいんじゃないですか?」
「何がだい? もしかするとだけどもぉ、ボクから酒を奪おうというのかな?」
「そうですよ」
「これはボクのだぞぉ!」
佐野さんは据わった目で空になったワインのボトルを大事そうに抱きかかえる。
「それ、もう空ですよ」
「なんだって!? なら次のワインを取ってこなきゃいけないじゃないか!」
よろめきながら立ち上がった佐野さんは「いたたた……」とお腹の当たりを擦り、その場で立ち止まる。
「大丈夫ですか? お腹痛い?」
「あぁ……ちょっとね。まぁたまにあることさ」
佐野さんはそう言うとワインを探しに歩き出す。だが少し歩くとガン! と大きな音がして、直後に俺の上に佐野さんが倒れ込んできた。
「えっ!? ど、どうしたんですか!?」
「こっ……小指……いたぁい……うぁああ……うぅ……」
どうやら足の小指をテーブルの足にぶつけてしまったらしい。ワインのために勇んで歩いていたからダメージはなおさら大きそうだ。
佐野さんの足を見ると、子供の足のような大きさの小指が生えている。見た目は赤いが腫れたり出血はしていないようだ。
「少し休んだら良くなりますよ」
「ならここで休ませてもらおうかな」
佐野さんは俺の上で馬乗りになると抱きつくように前のめりになって体重をかけてきた。
「ちょ……これは……」
本当、今日の佐野さんどうしちゃったの!?
「何もしないさ。ただ休んでいるだけだよ」
耳元でタルトちゃんの声がする。いくらでも休んでください! と言いたい気分だ。
「なら、ゆっくりしてくださいね」
「ありがとう、佐藤クン」
自分の両手は床についたまま。背中に回す勇気はない。
佐野さんも本当に休んでいるだけのようで、しばらくすると穏やかな寝息が聞こえてきた。
ん? 寝たの!?
「お……おーい……佐野さーん」
ぐぅぐぅといつもより少し大きめな寝息が聞こえるのみ。今更だけどこの人はもっと警戒したほうがいいんじゃないのかとも思ってしまうくらいに無防備だ。
そんな無防備で全身から脱力した佐野さんをソファに横たえる。
毛布をかけて消灯。多分、明日はいつものように一人で早起きして着替えて化粧を済ませて朝ごはんを作っているのだろう。
夜だけくらいはダメ人間にさせてあげようと思うのだった。
◆
翌朝、目が覚めると時計は十時を指していた。
特に何かがあるわけでもないのだけど、佐野さんはもう起きているはず。慌てて布団から出てリビングへ行くと、そこは昨晩とは何も変わっていなかった。
佐野さんもソファで横になっている。俺の足音を聞いた佐野さんがモゾモゾと動き始めたので起きてはいるようだ。
「佐野さん、おはようございます」
「んん……おはよう……です」
佐野さんはかなり元気がない様子。
「どうしました?」
「その……お腹が痛くて……」
「あぁ……昨日言ってましたよね。薬持ってきましょうか?」
「あ……なんだろう、いつもの感じじゃないんですよ。寝てないと結構辛い感じで……いたた……」
いつもと様子は違うので結構心配だ。
「病院に行きます?」
「は、はい」
「起き上がれますか?」
「うぅ……抱っこ……」
佐野さんは毛布から顔の鼻から上だけを露出して俺の方を見てくる。
「抱っこ!?」
「抱っこがいいです、佐藤さん」
「抱っこって……歩けないんですね?」
「はい! 歩けません!」
今日一番に元気な声で佐野さんが答える。歩けるのだろうけど、辛そうなのは事実なので要望に答えるしかないだろう。
膝と肩に腕を回して佐野さんをお姫様抱っこの形で持ち上げる。
佐野さんは「わぁ」と可愛らしく驚いた声を出して俺の首に腕を絡めてきた。すぐに近くに佐野さんの顔があるので昨日夜景を見に行ったときのことを思い出してしまう。
それに、佐野さんを抱っこはしたもののその様子は健康そのものだ。
「本当にお腹痛いんですか?」
「それはガチです。痛くて起き上がれなかったんですよ……今はちょっと落ち着い……あたたた……」
冗談はさておき結構悪そうなので俺は急いで車に佐野さんを連れて行くのだった。
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