第30話

 佐野さんが恐らく自分の家があるであろう都内の方角を見て何故か泣いている。


 今日は以前は入る事が出来なかったフォミマにも入れていたし、療養は順調なはず。それでもまだそんなに仕事の事が心に重くのしかかっているのだとすると、ここに連れて来た事を後悔すらしてしまいそうだ。


「すみません……都内の方を見ると思い出しちゃいますか?」


 佐野さんは俺の方を向くと、目尻の涙を拭って首を横に振る。


「ち、違うんです! これは……その……ドライアイなんです!」


 ドライアイなら仕方ないね、とはならないけど、本人がそう言うのだから深追いはしないほうがいいのだろう。


 何も言わずにそのまま立っていると、佐野さんは繋ぎっぱなしになっていた手をギュッと握り、体を寄せてきた。


 顎のあたりに静電気でふわっと浮いた髪の毛が当たる感触がある。


「今更ですけど……あっち側の家のガスの元栓、締めてなかったかもしれません」


 佐野さんは都内の方を指さしながら冗談を言う。


「なら……今から締めに行きますか?」


「えっ!? だ、大丈夫です! 冗談ですから!」


 佐野さんはあたふたとしながらも更に俺との距離を詰めてきた。踏切の遮断器を無理やり超えるように俺の腕を持ち上げて体を俺と柵の間にねじ込んでくる。


「今から都内まで車で行ってくれるなんて、佐藤さんは私がどれだけ無茶振りしても答えてくれそうですね」


「そりゃ……」


 そりゃガチ恋勢ですから。推しのためなら首都高でもどこでも運転しますとも、とは言えない。


「そりゃ……なんですか?」


「そっ……そりゃそりゃ!」


 目の前のちょうどいい位置に佐野さんの頭があったので髪の毛をわしゃわしゃとやる。


「きゃはっ! や、やめてくださいぃ!」


 佐野さんがやめてと言った瞬間にピタッと動きを止める。


「あ……い、いきなり止まられると怖いんですけど……」


「なら続けますか?」


「いえ。それよりも……そうですねぇ……」


 顔を前に向けて海を見ながら佐野さんは次の無茶振りを考えている。


 やがて、思いついたのか、笑顔で振り向いてきた。すぐ近くに顔があるので上目遣いで俺の顔を見上げてくる。


「ここから突き落としてください」


 柵の向こうは崖。落ちればただではすまない場所なのでさすがに面食らう。


「でっ、出来るわけないじゃないですか!」


「ふふっ、冗談ですよ」


「良い冗談と悪い冗談がありますよ……」


「ちなみに、ガスの元栓を締め忘れたのはガチです。マネ……お姉ちゃんに締めてもらいましたから」


「気になりますよね、そういうの」


「そうなんです。じゃあ、次ですけど……佐藤さん、ここでキスしてくれませんか?」


「えっ……えぇ!?」


 佐野さんは部屋でくつろいでいる時に「スマホを取ってくれ」と言うトーンでとんでもないリクエストをしてきた。


 今度は冗談ではないとばかりに佐野さんは俺の方へ体重をかけてくる。


「佐藤さーん、まだですかー?」


 顔を可愛らしく横に振りながら佐野さんがおねだりしてくる。いやいや! できるわけ無いじゃん!


「よ……酔ってます?」


「素面ですよ」


 むしろ酔ってくれていた方がありがたかったまである展開だ。


 佐野さんからのいきなりの急接近に固まってしまう。手汗だけはダラダラと出ているので佐野さんにも気取られていることだろう。


「佐野の唇、風で乾燥しちゃいそうですよー」


「り……りっぷ……」


「ここに到着する前に塗っておきましたよ」


 用意周到! ここに来る前から佐野さんはその気だったってこと!?


 佐野さんは柵を掴みながらも体重のすべてを俺に委ねている。俺が力を抜けば二人して地面に転げてしまうだろう。


「え……あ……ほ、本当に……いいんですか?」


「はい。ちなみに、初ですよ」


「い……いやいや……そんなわけないでしょ……」


「むぅ……事実そうなんだから仕方ないじゃないですかぁ! あ……さ、佐藤さんってもしかして……経験済みですか?」


「えっ!? あ……いや……その……そんなことないですよ」


 これは嘘。昔、柏原さんと飲んでいるときに勢いで一度だけ、キスまでしたことがある。それ以降は何もないし、向こうも触れてこないのでそれっきりだけど。


 とはいえそんなことを佐野さんに言えるはずも、言う必要もないので誤魔化したのだけど、あまりに下手だったからか佐野さんは頬を膨らませてむくれてしまった。


「カッシーさんですな。名探偵佐野には分かりますよ」


「別にあの人とはそんな関係じゃないですから」


「へぇ……そうなんですね」


 佐野さんは目を細める。追及の手を緩める気配はない。


「きょっ、今日どうしたんですか? ほ、ほら! 夜景が綺麗だなぁ……」


 佐野さんの顔を掴んで無理やり海の方を向かせる。


「むぅ……綺麗ですけどぉ……じゃあ、佐藤さんは今日なんでここに誘ってくれたんですか?」


「なんでって……み、見たかったからですよ」


「楽しいですか? 電球の集合体を見てて」


 佐野さんは遠くの夜景を見ながら、心底楽しそうに聞いてくる。言葉とは裏腹に滅茶苦茶楽しんでいるじゃないか。


「そりゃ楽しいですよ。なんたって――」


 そう言いかけたところで口がヌルっとした感触に包まれる。


 佐野さんが振り返って俺にキスしていたことに気づくのに数秒。そして、佐野さんは思ったよりリップクリームを塗りすぎていた事に気づくのに更に数秒を要した。


「んっ……」


 佐野さんは体を半回転させて俺の方を向くと腕を首に回して逃さないようにがんじがらめにしてきた。この人のホールドから逃げられないのは既に車で確認済みなので抵抗する気も起きない。


 塗りすぎたリップクリームの油分を分け合うようなキスはそれ以上進むことはなく、佐野さんから離れたことで終わった。


 佐野さんは俺から離れると顔を真横に向けてこっちを見ないようにしながら呟く。


「あの……佐藤さんの……くっ……唇に油を補給したんです! それだけです!」


「あ……ありがとうございます……」


 初めてだと言っていたのだからそれだけの理由なはずがないのに、そんな風に遠回しに言ってくるので俺も踏み込むのを躊躇ってしまう。


「さっ……寒いですね! 佐藤さん、車に戻りましょうよ!」


 佐野さんはそう言うと俺の手を引いて展望デッキを後にする。


 駐車場に戻り、俺の軽自動車の方へ歩いていると、近くの車の車体が揺れていることに気づいた。


 佐野さんも同じ方を見て首を傾げている。


「あれ……地震ですか? それにしてはやけにあれだけが揺れているような……」


 そこで俺は柏原さんがここに来たときに冗談半分で言っていたこと思い出した。ここは車内でアレをするのにも人気のスポットらしい。まさかそんな訳はないと思っていたが、本当にここで致している人がいるだなんて思わなかった。


 これでそういう話の流れになると気まずくなりそうなのでなんとか話題をそらしたいところ。


 幸いにも佐野さんは気づいていないようなので慌てて手を引いて自分の車の方へ誘導する。


「佐野さん、帰ったら温かいお酒を飲みましょうよ」


「おっ……おしゃけ!? 飲みます!」


 佐野さんの揺れる車体への興味はすぐに薄れ、何を飲もうかと一人であれこれ妄想を始めたのだった。

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