第16話

 佐野さんは一度部屋に戻って着替えを済ませると、テキパキとうちのキッチンを動き回り朝ごはんを作ってくれた。


 テーブルには白米に味噌汁にステーキ……ん? ステーキ? 朝から?


「これ……す、ステーキ……ですか?」


「あ……あはは……実はですね、差し入れが来ちゃいまして」


「差し入れ?」


「はい。会社の社長から」


「肉が来たんですか?」


「肉『も』なんです」


 佐野さんは苦笑いをして椅子から立ち上がると俺をキッチンの方へ誘う。


 そこには発泡スチロールの箱が大量に積み上げられていた。中身が何なのかは分からないが、積み上げられた発泡スチロールは佐野さんの身長を軽く超えている。


 これ、いつの間に運び込んだの!?


「えぇと……これ全部ですか?」


「はい……鯛とか牡蠣とかステーキ肉とか牛タンとか果物もたくさん入ってて……とてもじゃないですけど一人で食べられる量じゃないので佐藤さんにもおすそ分けです」


「おすそ分けって鍋を持ってくるイメージでしたけどね……」


 まさか業者のような単位で箱ごととは思わなかった。


「あっ! カレーにしますか? とりあえずカレーにしとけば何でも美味しくなりそうですし」


 佐野さんは笑顔でそう聞いてくる。違う、そうじゃない。


「まぁ……順番に食べていきましょうか。牡蠣に鯛に……」


 発泡スチロールに貼り付けられた伝票を見ているとそこには品目の他に送り主の名前も書かれている。『安東成海』。ベニーモ・タルトが所属する事務所の社長の名前だ。


 こんな身バレに繋がりかねない物をそのままにしているなんて。


 俺が伝票をじっと見ているのに気付いたのか、佐野さんは慌てて伝票を引っぺがす。


「あっ、あははははは! 佐藤さん! あっち向いてホイ!」


 佐野さんは俺を押しのけて発泡スチロールとの間に割って入ると、無理やり俺の顔を掴んでそっぽを向かせる。


 よし、佐野さんも気づいてくれたようだ。


「ど、どうしたんですか?」


「い、いえ! そのまま電子レンジと向き合っていてください!」


 そう言って佐野さんはべりべりと発泡スチロールに貼られた伝票を剝がして回る。


「ふぅ……危ない危ない……」


 佐野さんの安心しきた声を聴いているとついからかいたくなる。


「何が危ないんですか?」


「ひゃうっ!? さ、さささ、佐藤さん!」


 佐野さんは何をどうしたのか、手に持っていた伝票を自分の口の中へ突っ込んだ。


「え……えぇ! 何してるんですか! 早く吐き出してくださいよ!」


「モゴモゴ……ふひへふ!」


 無理です、と言いたいらしい。いやまぁ見られたくないという認識が合っていたのはいいのだけど、さすがに慌て過ぎだろう。


 佐野さんはまだ慌てているようで、俺の腕をペシペシと叩いてくる。


「何も見てないですって……何で……え? 大丈夫ですか?」


 口を開けたまま佐野さんは必死に俺の腕を叩いてくる。


「あふぉ! はふへた!」


「顎が外れたんですか?」


 佐野さんは必死に頷く。本当、何やってるんだこの人。


「ほっへ! ほっへ!」


 取って、と言っているようだ。


「ホッヘ? ドイツにありそうな地名ですね――ぐふっ」


 佐野さんのパンチが俺の腹に直撃する。どうやらからかっている場合じゃないらしい。


 佐野さんが口を開けて俺の前に来る。


 その口に手を突っ込み、顎の開閉を妨げている伝票を取り除く。


 伝票は佐野さんの唾液でべっとりだ。


 佐野さんに出会う前は、タルトちゃんの配信で風呂の話題になった時に『残り湯が飲みたい』だとか『唾液売って』とかコメントしていた人に僅かばかりに共感していたが、実際目の前にするとさすがにこれを売り物にしようという気は起きない。


 中の人は中の人で可愛らしいのだけど、それはそれ、これはこれだと気づき始める。


 あれ? 俺ってこのままガチ恋卒業しちゃうの?


 俺が伝票を持ったままそんな事を考えていると、佐野さんは顎を押し込んで口を元に戻す。


 何度か口をパクパクとさせて違和感が無くなったのか、佐野さんは「ふぅ」と落ち着くためのため息を漏らす。


「佐藤さん、ありがとうございます」


「あぁ……いえ、大丈夫でしたか?」


「はい! あの……それ、どうするんですか?」


「それって……伝票ですか?」


「はい。その……差し支えなければ私が回収しても?」


「え、えぇ。勿論ですよ」


 もしかして俺がこれをどうにかすると思われてる? 唾液を採取する人だとは思われたくないので誤解は解いておきたい。


「あの……佐野さん」


「何ですか?」


「さすがに唾液は……大丈夫ですよ」


「え? あ、こっ、個人情報が書かれているので……」


 あっ、そうでしたねぇ……


 まったく不埒な事は頭になかったらしい。一瞬でもそんなことが頭をよぎった俺がダメ人間だ。


 だが、佐野さんは戸惑いながらも伝票の端を千切って俺に手渡してきた。


「あの……佐藤さんがもし、そういう嗜好の持ち主でしたら……ここなら個人情報が書かれていないので……どうぞ」


 佐野さんは顔を真っ赤にしてそう言う。


 リスナーの皆、俺はやったぞ。

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