第10話

 佐野さんは俺の胸元に顔を埋めたまますぅすぅと深呼吸を繰り返している。


「あ……お、起きてますか?」


「はい」


 佐野さんはすぐに返事をする。


「こっ……これは一体……」


「落ち着くんですよ。やってみますか?」


 それはつまり、逆に俺が佐野さんの胸に顔を埋めるということ!?


「いっ……いえ! 大丈夫です!」


「ふふっ、そうですかぁ」


 佐野さんは甘い声で笑いながら囁く。この人、ほろ酔いだとこんなに可愛くなるの!?


「私、今日病院に行ったんですよ。で、お医者さんに言われたんです」


「なんて言われたんですか?」


「お酒以外に依存できるものを探してくださいねって」


「お酒以外に……」


「はい。今はいいけれど、このままの生活を続けていたら仕事に復帰はできても体を壊すかもって言われちゃって。ま、そうですよね」


 滅茶苦茶な飲み方をしているのでそうなっても不思議ではないとは思う。


 佐野さんはそんなことを言ったすぐ後にテーブルにある俺のコップに残っていたウィスキーを飲み干す。


「はぁ……今日はちょっとだけ多めに飲んじゃいました。でもここに来てから減ったんですよ」


「そうなんですか?」


「はい。佐藤さんが帰ってくるまで、なんでだろーって考えてたんです」


 そう言うと佐野さんは言葉を止める。


 え? 俺? 急なことなので驚いて黙ってしまう。


「あ……あはは……よっぽどここのマンションが気に入ったんですね」


 しばらくしてようやく紡ぎ出したものの、佐野さんはすぅすぅとまた深呼吸をしていた。


「お……おーい……もしもーし。佐野さーん! 起きてます?」


 佐野さんの身体を揺すると「んんっ……」と小さく呻く。この人、寝落ちしかけてたな。


 佐野さんは俺から離れてグーッと伸びをするとソファの背もたれに身体を預けてだらんと座る。


「ふぅ……あ、どこまで話したんだったかな?」


「えー……ん!?」


 一瞬の寝落ちでタルトちゃんの話し方に切り替わった。


「なんだい? そんな化け物を見るような目でボクを見るんじゃないよ」


「あっ……あっ……」


 佐野さんは配信のときは少しだけ声を低めにしているのだろう。目の前にいるのは佐野さんなのに、声は完璧にタルトちゃんになっている。


 何度その声を聞いても飽きることも慣れることもなく、声を噛みしめるため最初は何も言えなくなってしまう。


「まったく……キミはどうしてボクが話しだすと固まるのかな? タンパク質なのかい? 室温が凝固温度なのか?」


 佐野さんは据わった目のまま詰め寄ってくる。


 ベニーモ・タルトの真骨頂は歯に衣着せぬ物言い。お前はタンパク質なのか? と煽られることすらご褒美だ。


「あっ……あはは……」


「何を笑っているんだい……ボクは大変なんだぞぉ。新しい依存先を探さなきゃいけないんだから」


「いっ……依存するのは変えないんですか?」


「皆何かに依存しているものじゃないのかい? キミだってそうだと思うけどね。どうなんだい?」


 タルトちゃんの配信が生き甲斐だった。活動休止のお知らせを見てからは食欲も減ったし依存していたと言われるとそうかもしれないと思えてくる。幸いにも過去配信のアーカイブはたくさんあるので不足することはないのだけど。


「まぁ……そうかもしれませんね」


「そうだろうそうだろう。そこでボクは考えたわけだよ。お酒やタバコのように健康を害することもない、安心安全な依存先をね」


「ほう……それは何なんですか?」


「キミだよ」


 佐野さんはビシッと人差し指という名前の由来を遺憾なく発揮した人差し指を使って俺を指差す。


「おっ……俺!?」


「そうだ。キミは酒のように肝臓を悪くすることもない。タバコのように肺も悪くならない。ギャンブルのようにお金も無くならない。完璧じゃあないかい?」


「それ……言い換えたら男に依存するって事ですよね……悪い人だったら貢がせたり暴力を振るうような人だっていますよ……」


「キミはボクにそんなことをするのかい?」


 佐野さんはそんなわけがないと確信しているように笑いながら聞いてくる。


「すっ、するわけないじゃないですか!」


「そうだろう? つまりボクが正しいというわけだ。依存させてくれるということでいいね?」


 普段の佐野さんだったらこんなに自信満々に断言はしないだろう。恐る恐る「いいですか?」みたいに上目遣いで聞いてきそうな気がする。


 お酒を飲んで気が大きくなっているのか、タルトちゃんのキャラクターを憑依させているから気が大きくなっているのか、いずれにしても断れる程俺は意志が強くない。


 画面の向こうからタルトちゃんが現れて「依存させろ」と言ってくれるだなんて奇跡のようなものだ。


「あ……お、お酒は止めるんですか?」


「ま……まぁ減らしはするかな」


 佐野さんは俺から目線を外してそう言う。


 減らすつもりは毛頭無さそうだな、この人。単に俺にだる絡みする機会が増えるだけじゃないか。絡まれること自体は嬉しいのだけど、なんとも本末転倒な気がしてしまう。


「ゲームとかどうなんですか? 依存っていうか……まぁ暇つぶしみたいなものですけど」


 酒にしろ、俺にしろ、何にしても仕事を忘れることが目的のはず。ありきたりだがそんな提案をしてみた。


 佐野さんは勢い良く首を横に振る。


「いっ……いや……ゲームは……その、やっていると脳内で無意識に実況してしまうんだよ……」


 佐野さんはかなりの抵抗を見せる。


 しまった。タルトちゃんはゲーム配信もたくさんしている。つまり、ゲームをすることも仕事の一部なのだった。


 そう考えるとなかなか大変そうだ。カラオケも無理に行かないほうがいいんじゃないだろうか。


 インドアな事、パソコンでやることは大体NGなんじゃないだろうか。


「なら……一緒に外出しますか? 遠くにラーメンを食べに行ったりとか。ラーメン、好きですか?」


「おぉ! いいじゃないか! 好きだよぉ。キミは実にいい提案をしてくれるねぇ」


 佐野さんはニッコリと笑い、俺の頭を撫でてくれる。


 たっ……タルトちゃんに頭を撫でられている!?


「じゃ、ボクは寝るよ。明日はラーメンを食べに行こうじゃないか。ラーメン、楽しみだなぁ」


 佐野さんはそう言ってソファに横になる。


「えっ……お、おーい! 佐野さーん!」


「んん……おやしゅみぃ……」


 ダメだ、起きない。


 この人、毎日こうやってうちで寝落ちするんじゃないだろうか。


 まぁ、療養は始まったばかりだし、しばらくは自由にさせてもいいのだろう。


 二人分の食器をシンクに持っていく。


 二人分の食器の重さを腕で感じていると、何だか生活に張りが出てきていると思ってしまい、無性に嬉しくなってしまうのだった。

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