第8話

 佐野さんは肩にかかる髪の毛を俺の部屋にあった輪ゴムで止めると料理を開始。


 ここに住み始めてから一度も使った事がない鍋や炊飯器が登場したので、自分の部屋ではないような錯覚に陥ってしまう。


 佐野さんは手早くご飯を作り終え、気づけば早めの夕食となった。


 リビングのテーブルには、炊き立てで艶々な白米、味噌汁、鮭の酒粕蒸し、酒盗の盛りつけられた小鉢と健康的なメニューが並んでいる。


 当然、酒は無し。


「い……いただきます」


「はい! 召し上がってくださいな」


 タルトちゃんの声でそんな事を言ってもらえる日が来るなんて思わなかった。


 思わず「くぅ~」と感嘆の声が漏れる。


「ど、どうしたんですか?」


「あぁ……いや、こんなに美味しそうなご飯、久しぶりだったので」


「ふふっ、これからは毎日食べられますからね。あ、でも年明けまででした……」


 にこやかにそう告げた佐野さんは最後には気まずそうに顔を逸らした。


 そんな佐野さんを見て俺は不思議な感覚に包まれる。


 俺が望んでいるのはタルトちゃんの復帰。つまりこの療養生活の早期終了だ。


 そのはずなのに、ここに佐野さんがいる事を望んでしまっている。それは療養が長引くという事。タルトちゃんという存在にとって良い事ではないし、復帰できないという事実も佐野さんの精神面では負担になるだろう。


 だから、安易な事は言えない。


「うん! これ、凄く美味しいですよ! 酒粕!」


「あっ……ふふっ、そうですよね。単体で食べてみても美味しいですよ。私、料理してる時につまんじゃって、止まらなくて……」


 酒カス、酒粕を食らう、といったところだろう。


 この自制の効かないところすら可愛らしく見えてくるのだから不思議だ。


 ◆


 そんなこんなで二人でゆったりとした時間を過ごしていると、玄関チャイムが鳴った。


 エントランスをすっ飛ばして来る人なんて佐野さんのお姉さん、もといマネージャーくらいだろう。


「はいはい……」


 いつものようにドアを開けると、向こう側からもグイっと引っ張られる。


「よう、優一。元気してたか? いっちょ前にドアチェーンなんか閉めやがって」


「かっ、柏原(かしわばら)さん……」


 俺の予想に反して、そこに立っていたのは柏原優茉(かしわばら ゆま)。大学の先輩で大学院生。相変わらずというべきか、長い黒髪と黒で固めたコーディネートはカラスのようだ。


 大学に行かなくなった俺が唯一連絡を取り合っている人、というか一方的に絡んで来る人。


 ある日、この部屋で二人で飲んだ際に柏原さんはこの部屋の合鍵を作りに行った。


 結果、柏原さんは俺の部屋に入り放題。別に変な事をされるわけでもないし、信用はしているので良いのだけど。


 今日は佐野さんがドアの鍵を閉めていたはず。いつもは二つあるドアの鍵の上側しか閉めないところ、今日は両方を閉めていたので柏原さんもドアチェーンを閉められていたと勘違いしているようだ。


「あぁ……どうしたんですか?」


「とりあえず上がっていいか? 寒ぃんだわ……あ、誰の靴だ?」


 柏原さんは丁寧に並べられた佐野さんのスニーカーを目敏く見つける。


「あー……まぁ、何と言いますか……」


「彼女、できたのか!?」


「ち、違いますよ!」


「なんだ、彼女じゃねぇのかよ。挨拶しようと思ったのにさ」


 柏原さんはニヤッと笑う。多分彼女が来ていると勘違いしているのだろう。


「もし出来たとしても柏原さんは絶対に彼女には会わせませんから。何を言われるか分かったもんじゃないですし」


「ガハハ! そんな生意気な事言ってるうちは大丈夫なんだろうな。出来たら嫌でも私の有難さが分かるよ。恋愛感情抜きで腹を割って話せる異性なんて中々いないぞ?」


「そういうもんなんですか?」


「そうだよ。あ、じゃこれ先に飲んどいてくれ。教授が還暦祝いで貰ったんだとよ」


 柏原さんは大学院で美術史を専攻している。所属している研究室の教授は下戸なのにプライドが高いのか酒好きアピールを方々でしているらしく、お祝い事のプレゼントには酒が集まって来るらしい。


 勿論本人は飲めないので、教授の一番弟子である柏原さんに横流しされ、それが俺の胃袋に流れ込むというシステムが構築されているのだ。


「へぇ……ありがとうございます。いいやつなんですか?」


「ま、先入観無しで飲んでみろよ」


 柏原さんはウィンクをすると「じゃあな」と短く挨拶をして去っていった。


 受け取った縦長の紙袋を持ってリビングに戻る。


「宅配ですか?」


「あぁ……いえ、知り合いが来て、これを」


「へぇ……おぉ!? それ……貰いものですか?」


 佐野さんは一気に鼻の穴を大きくして興奮した様子を見せる。


 この人と酒の組み合わせはダメだ。


 慌てて背中に隠すも、佐野さんは猫のように素早く俺の背後に回り込み紙袋を強奪すると袋の中身を確認し始めた。


「こっ……これは……ラフロイグの40年物!? え……えぇ!? こんな物、どうやって手に入れたんですか!?」


 佐野さんの驚きようからしても、これは相当な品物のようだ。


「還暦祝いの品が横流しされてきたんですよ」


「なるほどぉ……じゅるり」


 口で「じゅるり」と言ってしまうくらいには垂涎の品らしい。


 佐野さんは俺と酒瓶を交互に見る。


「の……飲みま――」


「はい!」


 佐野さんは食い気味に返事をする。


「飲みませんよね? って聞こうと思ってたんですよね」


「飲みます! そんな引っかけ、ずるいですよ! 佐藤さん!」


 佐野さんは俺の意志はお構いなしに食器棚からコップを二つ持ってきたのだった。


 今日は、今日こそは泥酔させないぞ。

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