10 書き取り

 紫苑しおん華多菜かたなから手習いの指導を受ける横で、誘鬼ゆうきも同じように横で筆を持って机に向かっていた。今は一般的な読み書き用の文字を書いているが、そうではない時、符呪を書く時には、前もってあれこれと準備が必要だった。通常に重ねての部屋の清め、墨を擦る水や紙も普段のものとは異なった。当然のことながら心身の清浄を保ち、禁忌を犯さない。沐浴し禊を行い、清浄な衣に着替えて書写に臨んだ。

「誘鬼。自由に書いてかまわぬが、その紙一枚、墨の一粒水の一滴筆の毛一本一本にも魂は宿っておる。それを忘れぬように、大切に扱うがいい」

「……か、書きにくい……」

 嫌々ながら筆を握っていた誘鬼の手が止まる。まったく破れかぶれに書いていたわけではないが、渋々筆を動かしていたのは事実だ。それでもかまわないが、おまえの使うそれらのものは、全部何かの犠牲の上でできているのだと言われているのだ。真面目にやっていても、正直やりにくい。

 うまくなるためには練習は欠かせないが、数をこなせばそのぶん道具を消費していくことになる。なるべく無駄をしないように、点のひとつ、線の一本、書く時は魂込めて集中して書けというわけだ。作法も大事だが、道具の取り扱いと心構えを叩き込まれる誘鬼だった。

(まあ、まだ手習いには少し早い年頃だから、仕方ないといえば仕方ないことだが)

 華多菜はひっそりと思う。彼女も、筆を持つことそれ自体は嫌いではないが、報告だの記録だのといったいわゆる事務仕事は嫌いなので、遊びたい盛りの息子の気持ちも分からないでもない。しかし、それはそれ、これはこれ。

「そこまでやったら、終わってよいぞ」

「……わかった。がんばる」

 そうして誘鬼はせっせと筆を動かすのだった。

「紫苑は書く姿勢もいいな」

 それからふと視線を転じ、紫苑の姿を見やって華多菜はつぶやいた。

「……ありがとうございます」

 微かな声で答えたのは、照れでも謙遜でもなく、ただ集中していたからだ。ましてや当主の跡取り息子に遠慮したわけなどではない。筆を取るのは好きだ。好きだから苦にならない。褒められれば嬉しいから、ますます好きになる。紫苑は書き込んで真っ黒になった紙を見下ろして、頬を緩めた。

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