大人になれない子供の私

死んでもいいわ

 学校は今日で終わり。マフラーを口元までぐるぐるに巻いて、駅からの帰り道を早足で進む。


 終業式のあと、みんなは街のカラオケに行くらしい。私も誘われたけど、遠慮した。川口があんたのこと好きらしいよ、なんてサヤが言っていたけど、私は同い年の男の子になんて全然興味ない。友達のことは好きだけど、こういうの、煩わしいな、とすら思ってしまう。田舎だからしょうがないのかな。


 遮るものが何もない田舎道に吹く風が冷たい。寒さで忘れていた息を長く吐き出すと、白い煙になって消えた。冬なのに虫が多い。電車が1時間に1本しかない。コンビニがない。本屋もない。駅から家が遠い。この町の嫌なことはいっぱいある。言い出したらきりがないくらい。


 でも、今日は違う。1年に1日だけ、こんな地方のド田舎に住んでいて良かった、と思う日がある。それが今日。今日なの!


 公民館横の土手を走って、石の階段を跳ねるように上がる。建付けの悪い木の門を力いっぱい開けたら、玄関までめいっぱい走る!気付けば口笛なんて吹いていた。そのまま玄関の戸を開けると、やっぱり、ある。いつもはないはずの、ちょっと汚れた黒いスニーカー。靴を脱いで、勢いよく襖を開けた。


「シュウちゃん!」


「うおっ!びっくりした……」


 大きな方をビクッと震わせて、グレーのパーカーを着たシュウちゃんがこちらを向く。シュウちゃんだ、シュウちゃんだ、シュウちゃんがいる!持っていた鞄を放り出して、すぐさま隣にジャンプ!ああ、今年も会えた!


みさき、大きくなったなあ」


「ええ?変わっとらんよ」


「いや、変わったよ。去年より大人になった」


 大人、という言葉が嬉しくてにやける。私、大人になったんだ。ちょっとでもシュウちゃんに近付けたのかな。だとしたら嬉しい。みかんを1つ口に入れたシュウちゃんの横顔は、去年と変わらず眠そうにまばたきをした。


「いつ着いたの?」


「さっき。仕事片付かなくてな~」


 ぜ~んぜん仕事納まらなかったんだわ、とあくびをするこの姿も去年と変わらない。似合ってない無精ひげも、なんにも変わってない。


 シュウちゃんはお母さんの弟。つまり私の叔父ということになる。叔父とはいえまだ35歳だし、あまり叔父さんだと思ったことはないけど。


 13年前、この田舎を出ていってからずっと、遠い東京で働いているシュウちゃんは、1年に1回、親戚みんなが集まる年末にだけうちに帰ってくる。私はその日が楽しみで楽しみで、毎年待ちきれない。


 だって私は、この人のことがずうっと大好きだから。誰にも言えない秘密だけど。


「岬、帰ったならまず手洗いうがい!」


 いつも言ってるでしょ!とお母さんが台所から顔を出す。こちらを見ながら包丁を持つ手が動いたままなので、たぶん今夜の夕飯の支度、進捗良くないんだろうな。向こうの居間には既に親戚たちがたくさんいるからさすがに声に不機嫌さは出していないけど、相当焦ってると見た。


愁介しゅうすけも!いつまでみかん食べとるんかね!動きんさい!」


「へいへい……お前の母ちゃん怖いな」


 お母さんの不機嫌は、すぐにシュウちゃんにも飛び火した。こたつの上にあったみかんの皮を手で丸めると、こそっと私に耳打ちする。


「シュウちゃんのお姉ちゃんでもあるでしょ」


「まあそうなんだけどさ」


 兄さんたちに挨拶でもしてくっか〜、と立ち上がって伸びをする。手、長いなあ。大人の男の人って感じ。指も長くてゴツゴツしてる。


「また後でな」


 私が返事をする前に、シュウちゃんは部屋を出ていった。丸めたみかんの皮は机に置いたまま。手にとってみると、潰れた皮から良い香りがする。ずっとこうしていたいけど、私も制服を着替えなきゃ。せっかくシュウちゃんが来ているんだし、この前買った大人っぽい黒のニットでも着ようかな。



*************



 大人たちが騒いでいるすきに宴会を抜け出して、裏庭が見える縁側に座る。風は刺すように冷たいはずなのに、お母さんの手伝いで動き回っていたせいか体が熱く、むしろ涼しい。こっそり部屋から持ってきた上着、いらなかったかな。


 見上げると、もう月が高い位置にある。昼間から飲んでいたらしい大人たちの宴会は終わりの気配が見えない。それどころか、時が経つにつれて増える飲み会の参加人数に会は盛り上がるばかり。大人って、どうしてあんなにお酒が好きなんだろう。そんなに美味しい飲み物なのかな。部屋に充満するお酒の匂いに耐えられずこんなところにいる私は、やっぱりまだ子供なのだろうか。


「さっむ……風邪ひかないか?こんなとこにいて」


 よいしょ、とシュウちゃんが隣に座った。月明りに照らされた顔は少し赤くなっていて、目が潤んでいる。シュウちゃんはお酒が苦手だ。たぶん、またお父さんやお爺ちゃんに飲まされたんだろうな。


 毎年2人でここに逃げてくるのは、なんとなくお決まりになっていた。今年もそろそろ来てくれるだろうか、と期待して待っていたのに、私の小さな心臓は少しだけ跳ねる。


「シュウちゃんこそ、お酒飲みすぎじゃないん?」


「大人には色々あるんですー」


 ほれ、とみかんを渡される。ありがと、と言うと、ん、と返ってきた。こんなことだけで飛び上がる程嬉しい。ずっとうちにあるなんでもないみかんなのに、渡される人によってこんなに違うものなのか。食べるのがもったいないな、と手の中で握っていると、シュウちゃんはすでに半分を食べ終わっていた。すぐ横にはぐちゃぐちゃのみかんの皮。昔から皮剥くのへたくそだけど、そういうところも子供みたいでかわいい。


「岬、今年受験だろ」


「うん」


「進路とか決まってんの」


「う~ん……とりあえずこの田舎からは出たいかな」


「お、仲間じゃん」


 仲間……ちょっと複雑だけど、あなたの後を追いかけていきたい、とは言えなかった。そんなこと言っても、シュウちゃんを困らせてしまうだけだ。本当のことを言って、今の関係が壊れてしまうのは絶対嫌。どうせ結ばれない恋なら、このままで良い。


 でも、気付いてほしいと思うこの気持ちも本当。


「まあ、岬頭良いし、どこでも行けるよ」


 俺と違って、と笑うシュウちゃんの顔を見ていたら、なんとなく全部言ってしまいたいような、言っちゃだめ、と小さな私が私を必死で引き留めるような、胸がグッと引っ張られるような感覚が沸きあがってきた。気付いてほしい。この気持ちに気付いてほしい。去年は抑えられていたのに、長年積み重ねた私の気持ちと、ついに目が合ってしまったような気がした。


「……東京って、きれいな人多い?」


「そうだなあ……多いかも」


「シュウちゃんのタイプもおる?」


「タイプ……タイプかー……まあ、かわいいなって思う子はいるよ」


 たぶん、シュウちゃんの中で私はただのかわいい姪っ子だ。10以上も歳の差がある、姉の子供。子供なんだ、シュウちゃんにとって私は、子供。当たり前だよね。でも、そのかわいい子って、何歳?私はあと何年経てばそこに行ける?ぐるぐる回るどろどろした私の胸の中と反対に、シュウちゃんはなんでもない顔で最後のみかんを頬張った。


 子供は嫌。クラスで人気のサッカー部のあの人も、部活で人気のかわいい顔した後輩も、みんな子供。私は早く余裕のある大人になって、シュウちゃんにかわいいって言われるようなきれいな女の人になりたいのに。


 結局、こんなことを考えている私が1番、子供なんだ。


「さて、そろそろ中戻るか。寒いだろ」


 隣の影が庭にさす月明りから消えた。シュウちゃんはまた大きく伸びをして、さみぃ、と体を震わせる。


 その姿を見ていたら、言うはずのない言葉が口から出て行くのがわかった。あっ、と思った時にはもう遅い。白い煙が、夜空に溶ける。


「シュウちゃん」


「ん?」


「月が、きれいですね」


 少しだけ見開かれた目と目が合う。暗い縁側の中でぼんやり見えるシュウちゃんの、35にしては子供っぽい顔が、私を見ていた。少し静かになった後、ふっ、とシュウちゃんの唇が三日月のように形をつくった。


「なんだ、授業で漱石やったか」


「……そう。遊びだよ。今日、月きれいだからさ」


「ほんとだな」


 さー中入ろ、と落ちたみかんの皮を拾い上げる。その背中に、もう一度、諦めきれなかった私が声をかける。やめとけば良いってわかってるのに。


「遊びなんだからちゃんと返してよ」


 期待して吐いた言葉が、急に恥ずかしくなって立ち上がる。靴下から伝わる縁側の冷たさが、随分上の方まで染みてきて、やけに熱い顔まで届きそう。シュウちゃんはゆっくり振り返って、私の頭に右手を置くと、また意地悪そうに笑った。


「俺が返しちゃったら遊びじゃなくなるだろ」


 おこちゃまにはまだ早い、と先を歩く。暗闇でひらひらと動く手のひらが、静かに見えなくなっていく。シュウちゃんが廊下の角を曲がると、しんとした縁側に私1人だけが残された。さっき触れられた頭のてっぺんがまだ熱い。


「大人になったって言ってたくせに……」


 大人ってずるい。大人ってずるい!早く大人になってやる!

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