声の主
私達のやり取りは声だけだ。カーテンは常に閉められていて、プライバシーの名のもとに、私達はそれぞれの病床に立て籠もっている。
ハルの声はいつでも明るい。単に高いだけなのかもしれないが、それにしても明るく聞こえる。看護師さんとの会話も、ぼそっと呟く独り言も、明るくて寂しさを知らないような声をしている。それが時々煩わしい。
最初は泣きそうになることもあった。それでも人は順応していく。今はただ、いつかハルが絶望を知る日が来ないかと切望するだけだ。順調に救いようのないクズへと成長している気がする。そしていつか皆に嫌われてしまえば良い。そうすれば、私は迷いなくこの世に別れを告げられる。
そんな闇を抱えながら、今日も私は話しかけた。
「ハル」
「なぁに?」
「今、何を考えてるの?」
「えぇ?なに、いきなり…………」
「暇だったから」
「ふーん。私は今ね、プリンが食べたい」
「プリン?家族に買ってきてもらえば……?」
「んーん。私、経管栄養だからごはん食べられないの」
経管栄養とは鼻や胃に繋がるチューブから栄養を摂取する方法のことだ。私は経口栄養といって口で咀嚼して、口から栄養を摂っているためハルの言葉に驚きを顕にする。
「知らなかった。それは…………つらいね?」
「疑問で慰めないでよ」
「だって分からないんだもん。食べたいって思ったときに食べられない気持ち。私は元から食に頓着がないからさ」
「病院食は味気ないからねぇ。入院生活が長いとそうなっちゃうのかな」
「さぁね」
曖昧に答える。ハルが何を考えているのか、よく分からない。顔が見えないからなのか、いつも変わらない口調のせいか、取り繕っているのか本心なのか全く見えてこない。
唐突に、カーテンを開けて顔を覗き込みたい衝動にかられた。初めて言葉を交わしたときより強い衝動だったが、腕に繋がった点滴が私を止めた。
私達の間には、絶対に踏み込んではいけない、見えない領域がある。その領域に触れないよう、一言一言を探っては踏み留まるを繰り返す。もしその領域に足を踏み込んでしまったとしたら、どうなるか分からない。ごく一般的な友達と同様に、喧嘩して仲直り、または絶交するかもしれないし、立ち直れないほどの絶望を感じて、死への歩みを早めるかもしれない。私達は簡単には死ねない。己に力がないが故に自殺はできない。それでも、病気に負けないという気力がなくなってしまえば、私達は呆気なく死んでいく。
誰もが持っているという儚さを、私達は今、発揮している真っ最中なのだ。
ハルのベッドは相変わらずカーテンが閉じられていた。だけど少しだけ覗く。お手洗いのためベッドから離れ戻ってきた私は、カーテンへと手を掛ける。隙間から見えたのは、頭まですっぽり布団を被った姿。
ありえないと分かっている。それでも想像してしまう。妄想してしまう。
"普通"を。
普通に出会って、普通に別れる。死なんて言葉とは無縁の、和やかで緩やかな時間。空間。向かい合い、微笑み合うような。
そんな穏やかな普通。
◇
季節は変わる。
ハルも私も、退院することなく、病床に籠もる。時々苦しそうな呻き声が聞こえてくる。そして私も、時々死にそうな思いをする時がある。それでも今、私達は確かにここに存在している。
病院は全館暖房が働いていて、常に一定の温度、湿度に保たれている。冬らしさを感じさせぬまま、気がついたら春が訪れようとしている。共有フロアの窓から見える鮮やかな花の蕾は希望に溢れているように思えた。花開いた瞬間から覗える人々の笑みを、期待でもしているかのように。今にも開かんとばかりに膨れる蕾が、少しばかり憎らしく思えた。
私達に、春が来た。
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