隣人

 最近は曇りの日が多い。風の吹く音もよく聞こえる。中庭の木は肌着程度につけていた葉をすべて落とし、常緑樹に寄り添うように立っている。

 冬が私を待っていた。

 冬は、終わりの支度をする季節。

 私は白紙の便箋の前でペンを握った。

 家族へ、お世話になった先生、看護師さんへ。


 ◇


 気がついたら、隣は空きベッドではなくなっていた。

 誰か急性期から慢性期に移動してきたのだろうか?診察からそのまま入院したのだろうか?

 ……やっぱり、私はよく知らない。

 病院事情の把握と入院期間は比例しない。


 ただ、一つ分かったのは、私と同じくらいの若い女の子、ということ。


 カーテンの隙間からその横顔が見えた。男女で病室は分けられているから"女の子"というのは当たり前だが、私はその若さに思わず目を見張った。


『ねぇ』


 どちらの声だろうか。私?あの子?


「そちらからどうぞ」


 声が重なっていたみたいだ。さっき彼女の持ち上がった顔は見えたが、ベッドの背もたれを下ろされ、顔は床頭台しょうとうだいによって隠されている。

 私は静かに声を出す。


「若いね。さっき横顔が見えちゃった」

「君も若いでしょ?さっき寝顔見えちゃった」

「今も見える?」

「今は、台?……で見えない」

「ああ、床頭台だよ。看護師さんとかがケアするときに使う台。私物は台の中にいれるの」

「詳しいね」

「長いからね」


 声だけの会話はラジオを聞いて独り言を言っているみたいだ。彼女の声は軽やかで、私は対抗するように努めて明るく返す。


「ねぇ、名前、なんて言うの?」

「ハル。君は?」

「トキ。漢字は、『』る『』び」

「私はねぇ、木の『』と瑠璃の『』」


 ねぇ、私のこと見えてないよね。


「可愛い名前だね」

「ありがとう、灯喜」


 私のこと見ないでね。


「これからよろしくね、灯喜」

「こちらこそよろしく、葉瑠」

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」


 そこで呆気なく会話は終わった。でも…………。

 自分で振った話題なのに、ごめん。


 自分の名前が憎らしい。私に喜びなんて灯っていない。『葉瑠』という名前が羨ましい。

 でも、私の名前を呼んでくれる人がいる。

 「いい名前だね」って言わなかった。

 それがちょっと嬉しかった。


 私はどんな顔をすればいいの?


「おやすみ」の言葉が私を混沌から解き放ち、深い眠りへと誘う。重いまぶたを持ち上げて、葉瑠の方へと視線を向けると、そこには動いた様子さえない床頭台が葉瑠の姿を遮っていた。葉瑠の顔は見えない。


 良かった。きっと私のことも見えていない。


 おやすみなさい。

 さようなら。


 目が覚めたら、この苦難から逃れられますように。

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