第3話 換気扇の下で

 古びた台所に、灰色の服を着た少女が一人立っていた。

 天井の近くでは、換気扇が回っている。


 油にまみれた羽で、ブゥンと音を立てながら。


 流し台やガスコンロの向こうには、油で茶色く曇ったガラス窓。

 それなのに、夕日が眩しい。


 しかし、少女は一切意に介していない。

 ただ、微笑みを浮かべて、手にした包丁を動かしている。

 トントンという音が、一定間隔で鳴り続ける。

 ときおり、少女が鼻をすする音が混じる。

 きっと、鼻風邪でも引いているのだろう。

 それでも、少女は鼻をかむこともなく、ひたすら何かを刻み続けている。

 

 

 私がこの台所に来てから、それなりの時間が経っているように思える。

 その間ずっと、少女は何かを刻んでいた。

 その作業が終わる様子は、一向にない。


 

 それでも、私は少女の作業を見続けた。

 しかし、相変わらず、変化が生じることはない。

 不意に、ガスコンロへと目が向いた。

 上には、片手鍋が置かれている。


 強火にかけられているため、白い湯気が絶え間なく立ち、細く伸びあがりながら換気扇に吸い込まれていく。

 変化のない作業を見るよりは、退屈をしのげる光景だ。

 

 しばらく眺めているうちに、湯気の色に変化が現れた。


 それまでは、半透明に近い白色だった。

 しかし、その色が段々と濃くなっている。

 少女は、そんな片手鍋の変化に気づかない。



 ただ、何かを刻み続けている。



 しまいには、湯気は白い煙に変わっていた。

 換気扇はしきりに白い煙を吸い上げ、外へ排出している。

 しかし、それも追いつかず、ガスコンロの周囲は白い煙に包まれていく。



 それでも、少女はただ何かを刻み続けている。


 

 ついには、白い煙が台所全体に充満した。

 目が痛くなる程の夕日も、ぼやけた色に変わっている。



 それなのに、少女は、まだ何かを刻み続けている。



 姿は煙に紛れ見えないが、包丁の音は一定間隔で鳴り続けている。

 ときおり、鼻をすする音が混じりながら。

 

 周囲の惨状に、気づいていないのだろうか?

 そんな疑問を感じながら、包丁の音を聞き続けていた。


 どのくらい時間が経ったのだろうか。

 煙の中からは、相変わらず包丁の音が聞こえる。


 不意に、バンという大きな音があたりに響いた。


 その音ととも、充満していた煙が薄れていく。

 そして、徐々にあたりの様子が見えてきた。

 

 いつの間にか、台所には少女の他に人影が現れていた。

 煙が晴れるとともに、人影はハッキリと姿を見せた。



 派手な色の服を着た女性。

 そんな人物が、恐ろしい形相で少女の肩を掴んでいる。



 それからしばらくの間、私は二人のやり取りを眺めていた。

 そして、そのやり取りから、二人についてある程度の情報を得られた。

 

 女性は少女の母親であるらしい。

 少女は母親のために、毎日夕食を作っているらしい。

 しかし、少女は慢性的に酷い鼻炎を起こしているらしい。

 だから、臭いというものをほとんど感じないらしい。

 今回も、鍋の中身が焦げ始めたことに、全く気づかなかったらしい。

 今までも、同じような経緯で、何度も夕食を焦がしていたらしい。

 ならば、そんな鼻は必要ないらしい。



 だから、切り取ってしまえばいいらしい。

 

 

 私は思わず母親に掴みかかろうとした。

 しかし、体は一切動かない。


 気がつけば、母親は放心状態で包丁を握りしめていた。

 


 少女の顔の中央には、黒い三角形の穴がぽっかりと空いている。


 

 そこで、視界がグルリと回転した。


 気がつくと、夕日に包まれた台所に、少女が一人で立っていた。

 先ほどと同じように、微笑みを浮かべながら何かを刻み続けている。

 台所には、トントンという包丁の音が、一定間隔で鳴り続ける。 

 ただし、その音に鼻をすする音は混じらない。

 それに、彼女の顔は、先ほどよりずっと平面的になっている。




 そこで、目が覚めた。



 南側の窓からは、朝の陽射しが降り注いでいる。

 それなのに、胸の内は重苦しい気分に満ちていた。


 それでも、身支度をし家を出て、満員電車に揺られ、勤め先に到着した。



 執務室に入り、軽く頭を下げながら挨拶をして席につく。

 すると、背後から誰かが近づいてくる気配がした。


「少し、いいか?」


 声のする方向に振り返ると、上司が真剣な面持ちで立っていた。


「はい、大丈夫です」


 返事をすると、上司は軽く頷いた。


「そうか。結果だけ言うと、今の仕事をもうしばらく続けてもらうことになった」


「そうですか。かしこまりました」


「すまないな」


 上司は軽く頭を下げてから、去っていった。

 

 今担当している仕事に、失敗は許されない。

 ただし、本来は別の社員が担当するはずだった。


 しかし、重責に堪えかね、その社員が壊れてしまった。


 体が壊れたのか、精神が壊れたのかは聞いていない。

 ともかく、この仕事には就けなくなってしまったらしい。

 そのため、回復するまでは私が代行することになった。


 周囲からは、私に同情する声が聞こえてくる。

 それに混じり、彼を非難する声も。

 しかし、彼の身を案じる声は、何故か聞こえてこない。


 

 パソコンのディスプレイに一瞬だけ、平面的になった少女の顔が映った気がした。

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