使者

 城門の城壁の上に立つセレナは、城へ向かう道の先をじっと見つめている。そして昨晩そこから見えた松明の数々を思い出して身を震わせもした。それは中心から外に向かって何重もの円を重ねた姿の、見たこともない数の松明の灯りだった。


 一体あそこにはどれだけの兵がいたのだろう。その全てがここに向かってくるのだ。だが兵の移動を示す砂塵の様なものはまだ何も見えない。


「もう見えてもいいはずなのだけど」


 耐えきれなくなったセレナが、隣に立つイレイェンに声をかけた。セレナの問いかけに、オーギュストが差した傘の下にいるイレイェンは無言だ。それどころか目を瞑って、うたた寝でもしているかのようにすら見える。


「ねえ、聞いている?午後ももうだいぶ過ぎたから、そろそろ着いてもおかしくない?」


「小娘、お前は知恵が足りぬぞえ。自分達の移動と、あれだけの兵隊の移動を同じと思うでないぞえ。それに鋼鉄公のことじゃ。まずは先触の使者に尖兵を送ってくるはずじゃ。最もそんなものを送らずに、こちらを一飲みにしようとするかもしれぬな。その時はその時じゃ。覚悟を決めや」


 イレイェンの言葉に、セレナは首から下げた細い鎖の先を震える手で握った。そこにはイレイェンから手渡された白と黒の容器が二つぶら下げてある。自分はこのどちらかを使う事になるのだろうか。今から起きようとしていることに対して、セレナは自分がどこまで耐えられるのか自信がなかった。


 背後を振り返ると、そこには村からここまで一緒に来てくれた仲間が、セレナと同様に緊張した面持ちで、道の先をじっと見つめている。特にクラリーサの表情は蒼白だった。


 セレナはクラリーサに、それまで城に残っていた奉公人達と一緒に城を去るように説得したのだが、彼女はそれを断固拒否した。その時にクラリーサがセレナに言ったセリフは、「耐えられない」だった。たとえ無事でも、セレナと一緒に居られなかったことを絶対に一生後悔する。そんな事は耐えられない。クラリーサはそうセレナに告げた。


 そして昨日の夜は二人で手を取り合っていっぱい泣いた。化粧が乗らないひどい顔になってしまう。泣いてはいけないと思っていたが無理だった。泣きながら二人でいつしか眠りに落ちていた。


 朝になってイレイェンが部屋にきて、自分の化粧を始めた時に、きっと山ほど文句を言われる。セレナはそう思っていた。だがイレイェンはセレナの泣きはらした顔については何も言わなかった。そして化粧が終わったあとただ一言、


「小娘にも化粧だぞえ」


 と満足気に告げただけだった。そしてクラリーサに向かって、


「お前にも化粧が必要だぞえ」


 と告げると、クラリーサの顔を見事なぐらいにやぼったい田舎娘のそれへと変えた。それぞれ別の意味で違う顔になったお互いを見て、セレナとクラリーサは二人で笑い声を上げた。それはついさっきの事だ。だがセレナにはそれがもう何日も、いやもう何年も前のことの様に思えた。


 クラリーサのさらに背後では、黒い服を着た背の高い男が、何も感情を感じさせない表情で、街道の先をじっと見ている。セレナはその漆黒の瞳を見つめているうちに、手の震えが止まるのを感じた。そしてガラスの容器から手を離す。


 自分はこのトーラスの地の領主なのだ。今から薬に頼るような事を考えているようでどうする?セレナは自分にそう言い聞かせた。


「来たぞえ」


 不意に横からイレイェンの声が響いた。城壁に身を預けて先を覗くと、道の先で小さな砂埃が上がっているのが見える。


「先触の使者じゃ。お前達、鎧の中身は見えぬから、ともかくじっと立っておりや。妾達は下で使者を待つぞえ。アルヴィン、お前にはオーギュストを手伝って城門を下ろしてもらうぞえ」


 そう言うと、オーギュストを引き連れて、城壁から下へ続く階段の方へと移動する。


「小娘、何をしておるのじゃ。あれはお前が相手にするのだぞえ」


 セレナも慌てて階段の方へと向かう。だけど着慣れていない衣装のせいか、足がもつれて階段から落ちそうになった。だが背後から誰かが自分の腰に手を回して、体を支えてくれる。


「あ、ありがとう」


 セレナは背後から自分を支えてくれたアルヴィンに対して礼を言った。


「領主としての初仕事だ。緊張するのは分かるが相手も同じ人だよ」


「そ、そうね。そうよね。ミスラルおばさんと朝の挨拶をするのと何も変わらないよね」


「小娘、お前は……」


 イレイェンが呆れた様な声を上げたが、アルヴィンが右手を上げてそれを制した。


「そうだ。何も変わらない。それにセレナ、君は一人ではない。君には君を支えてくれる人がいる」


 そう言うと、イレイェンの方をちらりと見る。アルヴィンの視線を受けたイレイェンが、「フン」と恥ずかしげに鼻を鳴らして見せた。


「うん。アルヴィンさん、ありがとう」


「まあ良いぞえ。何も口に出来ないよりはましじゃ」


 城門の向こうで馬蹄が響き、そしてそれが止まる音がした。


「査察官、ブエナ大公・ウンベルト閣下より使者を賜ったものです。開門を願います!」


「オーギュスト、アルヴィン、急がずに開けや。せいぜいもったいぶってやるのじゃ」


 セレナは横で滑車から下がる鎖に、アルヴィンとオーギュストが手を伸ばすのが見えた。次に鎖の立てる耳障りな金属音が響く。それと共に跳ね橋式の城門が少しずつ向こう側へと降りていった。


 日陰になって薄暗かった城門に、降りていく跳ね橋の隙間から傾きかけた日差しが差し込んで来る。セレナは自分の顔を照らす日差しを片手で遮りながら、その先に居るものを待ち受けた。


「バン!」


 最後に大きな音を立てると、城門はさして幅があるわけではない堀にかかる跳ね橋へと変わった。その先で一人の騎士が馬を降りて、こちらに向かって跪く姿が見える。白馬の手綱を手に、白銀の胸甲をつけたその姿は、少女が夢に描く白馬の王子を連想させるような姿だった。


 セレナはイレイェンに言われていた通り、跳ね橋の方へゆっくりと進んだ。城門を抜けて跳ね橋の上へと差し掛かると、自分が身につけている白いマントが春の風に翻った。


「セレナ・ロランド・アルヴィン・トーラスです」


 セレナの声に使者が顔を上げた。まだ少年の面影を十分に残す整った顔をした騎士が、栗色の髪を風になびかせつつ、濃いはちみつ色の目で自分を見上げている。


「お初にお目にかかります、ブエナ大公、ウンベルト閣下から使者を賜りました、フェルナンデス・ソリジャ・マルドネス・ブエナです。本日は王国第一の旗手、トーラス侯の尊顔を拝しまして、栄誉の至りにございます」


「フェルナンデス殿。トーラス城、城代を拝命しております、イレイェン・ベルガミン・ブエンディアです。本来は謁見の間にてお会いするのが作法ではございますが、本日は先に御用命をお聞きした方が良いと思い、こちらにてお待ちさせて頂きました」


「はい。本日は父のウンベルトより、監察官代理としてこちらにお伺いさせて頂きました」


「左様でございますか。では中にご案内させて頂きますゆえ、馬をこちらの者にお預けいただけませんでしょうか?」 


 そう告げると、イレイェンは傍らにいたアルヴィンを指さした。

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