泡沫
「金?あなたがこの地の金を得てどうするのです?」
「もちろん私が使う為のものではない。投資だよ。貴方にこの地への投資をお願いしたいのだ。そして他の信用できる投資家への呼びかけもお願いしたい」
「このトーラスの地へ投資しろということですかな?」
「そうだ。概算の予算並びに、そこから上がる収益に関する試算書は作ってある。君が今回動かしている軍にかかる経費から憶測するに、君には十分に出せる金額だと思う。そもそもこの地に、これまで適切な投資が行われなかった事自体が、怠慢以外の何物でもない。かなり有望だよ」
「やはり神というのは不合理な存在ですな」
「それについては先程、不完全だと……」
「私が言いたいのはそこではありませんよ。あなたには軍才だけでなく、経営者としての才まで与えている」
「ウンベルト殿、これは才能の問題ではない。役割の問題だよ。全ての者にはそれぞれに果たすべき役割があるだけだ」
「そういうものですかな?多くの者にはその自覚が無いように思いますが?」
「それは自覚させるべきだな。それが教育だ。それに才能と言うのは鉱脈の様な物だよ。本人や周りの者が見つけ出すべきものだ。それに今回その投資を適切に運用すべき役割は私ではない。それをすべき者は他に居る。私は彼らの背中を押す手伝いをするだけだ」
「それは楽しみですな。久しぶりにお会いできて、楽しい時を過ごさせていただきました」
「それは良かった。酒宴に招待した甲斐があったというものだよ」
「投資の件については酒の席ではなく、別の機会にお話しさせていただきましょう。今度は私の方からご招待させて頂きます。何より酒が良すぎたせいか、少しばかり酔いが回ってしまいましてな。年は取りたくないものですよ。それに金の計算は酔ったときにするものではないでしょう」
そう告げると、ウンベルトはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「帰りも送っていただけると助かるのですが?」
「無論だ。君は客なのだからな」
男がそう告げて右手を上げると、いくつかの黒い影がウンベルトの周りを包んだ。そして翼の羽ばたく音と共に空へと昇っていく。
ウンベルトはいつの間にか忘れていた、高揚感の様な物を感じていた。それは空を飛んでいる為でも、酒に酔ったせいでもないように思えた。
* * *
テレサの眷属達の翼が起こした風に、桜の花びらが舞う。それはアルトマンの盃の中へもひらりと舞い降りた。アルトマンはその花びらごと、杯に残っていた酒を煽ると席を立ち上がった。
「テレサ、なかなかの美酒だった。だが彼には少し強すぎたのではないかね?」
「申し訳ございません。相手が人間だと言う事を失念しておりました」
「まあ良い、せっかくの再会だ。少し酔うぐらいでちょうど良いだろう。では城まで戻るとしようか」
「陛下、帰りも歩かれるおつもりでしょうか?」
「私も少し酔ったよ。酔い覚ましには丁度良い散歩だ。今宵はご苦労だった。皆にもそう伝えておくれ」
「はい。勿体無いお言葉でございます」
アルトマンは跪くテレサに向かって軽く手を振ると、丘を下る道をゆっくりと下り始めた。視線の先、少し遠くにはいくつかの松明の明かりに照らされたトーラス城が見える。そしてその反対側、低い山並みの裾野にも沢山の松明の明かりが見えた。
それは正確で明確な意図に基づいた、幾何学的な配置をしており、完全に統制された軍がいることを示している。アルトマンはかつて戦場にて、勇者とウンベルトの父親の軍と相対した時の事を思い出した。人間の軍隊の中でもっとも手強く、そして統制が取れていた軍だった。それが崩れたのはあの勇者が死んでから後の事だ。
アルトマンが背後を振り返ると、そこには自分が先ほどまで酒宴を開いていた大きな桜の木が見えた。そこにあったはずの机や椅子は既に姿を消していて、先ほどまでそこに誰かがいた気配は何もない。
アルトマンは丘を下り終えると、林の中の細い道へと足を踏み入れた。微かな月明かりはあったが、人の目であれば漆黒の闇としか言えない中を、アルトマンは無言で歩いていく。そして林の中ほど、そこだけ木立がなく、小さな野原になっているところまでくると足を止めた。
「この辺りでいいのではないかな?それとももう少し広いところに出た方が都合がいいかね?」
薄曇りの間から顔を出した、青白い月の光を浴びながらアルトマンがそう呟いた。
「気付いていたのか?」
どこからともなく声が響く。
「無論だ。獣の一つの鳴き声もしない。これだけの静寂だよ。いくら君が気を使おうとも、流石に分かるというものだ」
「ではこれ以上気を使うのは無用という事だな」
木立の一つの背後から人影が浮かび上がると、アルトマンに向かってそう答えた。
「あんたの言う通りだ。前回は油断した。だから今回は遠慮はしない。それにあんたが人並み以上の腕の持ち主だと言うことも分かっている」
人影がアルトマンの方に向かってゆっくりと進み出た。アルトマンの目に何かが月明かりを浴びて光り輝くのが見える。それは既にサヤを抜かれた一本の剣が映す月明かりだった。同じ月明かりを浴びて、アルトマンの前に立つ人影は、イレイェンやオーギュストと一緒に村まできたあの剣士だった。
「そしてあんたの手には何もない」
「不合理だな」
「今さら命乞いか?」
「命乞い?そうではない。君の仕事はこの地で領主代理とやらを扇動して、不正とそれによる対立を起こす事だったのだろう。既にそれはなった。今更私と命の取り合いをする理由はないと思うのだがね」
「残念ながら俺の雇い主はそうは思ってはいない」
「そうだろうか?決して君の責任ではないと思うのだがね」
「うちの雇い主は鋼鉄公が割り込んできたのは、事が起こるのが遅れたせい。つまりは俺のせいだと思っているのだよ」
「もっと不合理な話だな」
「あんたの言う通りだ。世の中は不合理な事ばかりさ。それもあんたが色々と引っ掻き回してくれたおかげだよ。それにあんたが鋼鉄公の手先だったとはね」
「手先?私はただの通りすがりだよ」
「そうだったな。『はい。』なんて答える訳はないな。俺たちは常に泡沫のようなものだ。いつの間にか現れては消えていく」
そう告げると剣士はアルトマンに向かって剣を構た。
「だが今回に関しては、俺があんたにしてやられたのは間違いない。せめてあんたの首を持って帰れば、俺の主人の機嫌も良くなるかもしれない。このまま帰る訳にはいかないのさ」
剣士がアルトマンに対して間合いを計り始める。
「無用だ」
「まだ世間話を続ける気か?」
「失礼した。これは君に言ったのではない」
「覚悟を決めたということか?いい度胸だ」
剣士はアルトマンとの間合いを己がものにすべく、少しずつ、少しずつ、にじり寄るように間合いを詰めていく。
「ホー」
どこかでフクロウが小さく鳴くのが聞こえた。それを合図にしたかのように剣士は足で大地を蹴ると、一気にアルトマンの方へ詰め寄った。その剣は真っ直ぐにアルトマンの急所、首筋を狙ってくる。それは一陣の旋風が舞ったかのような速さだった。
「うっ、うう」
木立の間に呻き声が漏れた。その呻き声は剣士の口から漏れたものだった。その背からは何やら鋭いものが突き出ており、その足元には血が一滴、一滴と流れ落ちていき、小さな水溜まりのようなものを作っている。
彼がふるった剣は、腕ごとアルトマンの右手によって抑えられていて、その左手は剣士の胸へと深々と突き刺さっていた。
「途中で軌道を変えてくるとはいい腕だ」
「人並み、い、以上、とは、思っていたが……まさか、人ではな、なかったとはな……」
「君にとっては不合理だったな」
剣士の口から答えはない。ただ小さく口笛の様な息が聞こえるだけだ。その手から剣が滑り落ちると、それは地面の上へと突き刺さった。アルトマンはその体を抱き抱えるように支えると、そっと地面へと下ろしてやる。空を見上げる剣士の目にもう光はない。
「陛下、どこもお怪我はありませんでしょうか?万が一と言う事もあります。どうか無理を為されずに私共にお任せください」
いつの間にかアルトマンの側に跪いたテレサが、手にした黒い布で、アルトマンの左手とそこから鋭く伸びた爪らしきものを拭った。その布は男の体から流れ出た赤い血に染まる。
「陛下のお命を狙うなど、許し難き所業です。この者に連なるものを全て洗い出して、その報いを与えてやります」
「無用だ」
「ですが、お命が狙われたのです。このままには出来ません!」
「それよりも、この男をどこかに葬っておくれ」
「陛下を襲ったものをですか?その躯は獣の餌にでもなるのが当然の報いではないでしょうか?」
「そうではない。ある意味、彼はお前と同じなのだよ」
「私と同じ?」
テレサの顔に怪訝そうな表情が浮んだ。
「そうだ。彼は己が責務と信念に忠実だっただけなのだよ。彼にとって不合理だったのは、彼の主人が彼の仕事と信念の価値を理解していなかったことだ」
アルトマンはテレサに向かって頷いて見せた。そして剣士の顔へと手を伸ばす。
「泡沫か。確かに全ては消え去った。今はただ静かに眠るがいい」
そう告げると、アルトマンは剣士の瞼をそっと閉じてやった。
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