酒宴
生まれる前の赤子のように何かに包まれながら、ウンベルトは誰かの口笛の音を聞いていたような気がした。だがそれはきっと風の音だったのだろう。
まるで舞台の幕が突然に上がったかの様に、ウンベルトの視界が急に開けた。視線の先には小さな卓があり、その上には明かりを落とした角灯が一つ乗っている。頭の上には大きな桜の木もあり、その枝の間から下弦の月が小さく見えた。
桜の木からはいつの間にか吹き始めた風に乗って、紅い花びらがゆらゆらと音もなく落ちていく。足元は桜の花びらで、淡く紅い敷物を引いたかのようになっていた。美しいとしか言えない光景だ。しかしウンベルトの脳裏にはかつて戦場で見た、朱く染まった死体が何処までも地面を埋め尽くしていた光景と重なって見えた。
「我が主人がお待ちしております」
いつの間にか自分の天幕に現れた魔族の女性、黒き翼を持つ者が、桜の木の下にある卓を指し示した。そこには一人の男性らしき影がある。いや影ではない。漆黒の髪を持つ、黒い服を着た背の高い男が座っていた。
男は自分に向かって立ち上がると、右手を上げて反対側の椅子へと向けた。
「ブエナ大公・ウンベルト殿。お忙しい事は承知しているが、昔話をしたく、酒宴にご招待させて頂いた」
男がウンベルトに対して口を開いた。ウンベルトの闇に慣れた目にその姿がはっきりと映る。かつて戦場で目にし、夢の中でも何度も繰り返し見た漆黒の瞳が、再び自分を見つめていた。
「魔王……」
ウンベルトの口から言葉が漏れた。自分の頬がまだ紅かった、大人とはまだ言い切れなかった時に出会った存在。それがさして変わらぬ姿で再びウンベルトの前にいた。
「無礼者。分を弁えよ」
自分の前で跪いていた女性の右手が動いた。そこから長く鋭く伸びた爪が角灯の灯に黒く光る。
「テレサ。彼は私の今宵の客なのだよ。しばしお客と私の二人にしてはもらえないか?」
「大変失礼いたしました」
女性はそう告げると、ウンベルトの前から下がって、闇の中へとその姿を消した。
「どうかそちらの席に座って、しばしの間、私と酒宴を共にしていただけないだろうか?それに先程の発言を聞く限り、どうやら私の事を覚えてくれていた様で嬉しく思う」
「そうですな。招待を受けたからには盃を受けぬのは無作法というものでしょう。それに貴方の事を忘れることなど、私には望んでも無理というものですよ」
ウンベルトはそう答えると、卓の前へと向かった。そして男に向かって頷いて見せながら席に着く。卓の上には上を覆う桜の木から降りて来た花びらと共に、ガラスの杯が二つと、透明な液体を満たした瓶が一つ置いてあった。吹き抜ける風が卓の上の花びらを何処かへと連れ去っていく。
「最後に言葉を交わした時から既に50年近くは過ぎただろうか?」
男はそう告げると、ウンベルトの前に置かれた杯に、並々と透明な液体を注いだ。そして自分の前に置かれた杯にもそれを注ぐ。そこからは桃の様な爽やかで少し甘い香りが漂ってきた。ウンベルトは杯を男の前に持ち上げると、おもむろにそれを口に含んだ。口の中に爽やかな果物の香りがすると同時に、強い酒分がウンベルトの喉を焼く。
「そうですな。私はまだ子供のような者でしたが、あなたはほとんど変わっていないように見える。老いた身としては羨ましい限りです」
「そうだろうか?日々の変化としてそれを捉えるのであるならば、君の方こそが羨ましく思える。君の子息はかつての君そっくりだそうだね。テレサは、君を招待した者は、間違えて君の子息の方をこちらに招待するところだったそうだよ」
「人があなた達に優る点といえば、産み育てるのが早いということぐらいでしょうか?」
「その成長の日々を見てこれたというのは幸せの一つではないのかな?」
「同じ時を過ごしていると考えれば、そうとも言えるかもしれませんな。ですが正直に言えば、長命のあなた達と短命の私達が感じる時が同じとは思えませんよ」
ウンベルトはそう答えると、杯を卓の上へと置いた。男がそれに再び酒を満たす。
「それよりも魔王殿、今宵この老いぼれをわざわざ酒宴に招いた理由をお聞かせいただけませんでしょうかな?人間というものは年を取ると気が短くなるものなのです」
「そう言うものなのかね?若くても気が短い者を何人か知っているが……。それはここでは関係のない話だったな。言った通りだよ。昔話をしたくてご招待させて頂いたのだ」
「はて、この老いぼれと昔話とは?」
「それと君に尋ねたいこともいくつかあるのだ。先ずはどうして君達は私の事を魔王と呼ぶのかね」
「魔王?」
「そうだ。国の王であれば国王であろう。もし敵国の王を魔王と呼ぶのであれば、我々も君達の国の王を魔王と呼ぶべきだ。もっと不可思議な事は、君達の呼称である魔王という呼び方が、私の国でも定着している事だよ。これはとても不合理な事ではないかな?」
「もしかしてあなたは、それをとても気にしているのでしょうか?」
「ああ、気になる」
「ハハハハ、」
ウンベルトの口から笑い声が漏れた。
「それで私が先ほど魔王とあなたの事を呼んだら、彼女が私の事を無礼者と言ったのですな」
「彼女の客に対する無作法については私の方から謝るとしよう。申し訳なかった」
「いや、主人に対する当たり前の態度でしょうな。それは単純な話です。私達はあなた達の事を魔族と呼ぶ。その王だから魔王なのですよ」
「ふむ。それでもやはり不合理だな。私達は君達の事を人族と呼ぶ。ならば我々は君達の王の事を人王と呼ぶべきだ。それに魔という言葉は本来、認知できない不可思議な物に使う言葉だ。我々は君達の目の前に存在している。決して不可思議な存在ではない」
「魔王殿」
「ウンベルト殿、ここは非公式の場だ。私の事はここではアルヴィンと呼んでもらえないかな?」
「アルヴィン!?」
「そうだ、私はこの地ではそう名乗っているのだよ。最も私が一番よく知っている人間の名前を選んだだけだがね。そしてとても一般的な名前だと思っていたのだが、それは私の勘違いだったらしい」
「勇者の名前ですぞ」
「そうだ。ならばそれにあやかりたく、子供にその名前をつける親は多いのではないかな?」
「ハハハハ、普通の親なら名前負けすると思うでしょうな。あなたの国では子供にあなたの名前をつけるものは多く居ますでしょうか?」
「さあ、統計を取っているわけでは無いので、正確なところは不明だが、それほど多くはないかもしれぬな」
「失礼ですが、子はおられますかな?」
「子供?まだ縁はない」
「ならば、分からないでしょうな。その様なものは親になって初めて経験し、そして後になって理解できるものです」
「なるほど。そういうものなのだな。私の考えが浅かったらしい。とても参考になったよ」
「アルヴィン殿、昔あなたに戦場で会った時からこの方、私は貴方が冷徹な現実主義者であると思っていました。だが私は間違っていた様ですな」
「間違い?」
「貴方は現実主義者なのではない。理想主義者なのですね」
「理想主義者?私がかね?」
「ええ、こうして酒を酌み交わして見て分かりましたよ。貴方は自分と私達が対等だと思っている。それを基準に物事を考えている」
「それのどこが理想主義なのかね。日々に何かを感じ、考える魂を持って生きている。その点において私と君の間に何の違いもありはしない。単なる事実だよ」
「私を含めて多くの者はそうは思いません。あなた方は私達よりはるかに長い寿命を生き、そしてはるかに強い力を持っている。貴方達から見たら私達『人』はまるで塵芥の様な者、そう思う事でしょう。そして私達は貴方達にとても深い嫉妬の念を抱いている。我々の争いの根源はとても深いのですよ」
「なるほど、それ故の『魔』か。恐怖を理解で克服する事なく、そこに留まっているのだな。だが寿命も力もその者の本質ではない。自我を、魂の存在を感じられる者の本質は、もっと別なところにあるのではないかな?」
「私達が貴方に勝てなかった本当の理由がやっと分かりましたよ」
「理由?」
「ええ、貴方は自分たちの力などに胡座をかいたりは決してしない。私達を対等だと考えている様な者に、私達が付け入る隙などありませんでしたな。やはり貴方は巷の噂通り、筋金入りの合理主義者らしい。そして私は無駄に年をとっただけで、未だに多くのことが見えずにいた様です」
そう告げると、ウンベルトは杯の中身を一気に開けた。その酒分がウンベルトの胸につかえている、様々な後悔の念を焼いていく。
「50年前と姿が変わらない貴方を前にすると、この酒宴は神とやらが、私の人生の終わりに向けて、私が犯した罪、いかに私が盲目で怠惰であったかを示す為に催してくれたような気がします」
「ウンベルト殿、間違いだ。それは50年前に私が犯した罪だよ」
「貴方の罪?」
「そうだ。50年前、私は君達がなんでこちらに攻めてくるかも、勇者という者が少数で私に挑んできたのかも、全く理解できなかった。単に不合理だと思っただけだ。それが不合理である以上、それを合理的に排除するだけ、そう思っていたのだよ」
「為政者として、軍略家として当然のことと思いますが、それのどこが罪に当たるのですかな?」
「不合理だったのだよ。私自身がだ。その不合理という理解は己の判断に基づくもので、相手の状況に基づく判断ではない。物事と言うものは常に相対的であるという事を理解していなかったのだ。それを不合理の一言で片付ける前に、なぜ相手がその様な行為をする必要があったのかと言うことを、相手の立場になって考える必要があったのだ」
そう告げると、男は杯の中身をあおった。そしてウンベルトと自分の杯に再び酒を注ぐ。
「未熟だったのだな。君の言う通りだ。まさに盲目であり、怠惰だよ」
「我々が神ではない以上、色々なものには限界というものがあるのではないでしょうかな?合理主義的な考え方というのもそれの一つでしょう」
「私は神というものだって不完全なものだと思っているよ。だからこのような世界が、君や私が存在するのだろう。それに合理的な考え方自体が不合理なのだよ」
「不合理?」
「そうだ。合理的というものはある種の決まった台本しかない演劇の様なものだ。そこには変化もなければ、広がりもない。真の合理主義とは、不合理な振る舞いの中に、新しい合理性を追求するものなのだ。だから合理主義とは不合理の中にその価値を見出すための考え方なのだよ」
「屁理屈ですな。ですが今の私には貴方のそれを否定する材料はない」
「ハハハハ」
男の口から笑い声が漏れた。ウンベルトが見る限り、男はこの会話を本当に愉しんでいるようにしか見えない。目の前の男は50年前に人を滅ぼしかけた者と、本当に同じ存在なのだろうか?ウンベルトの中にそんな思いが浮んだ。
「屁理屈。そうだなその通りだ。それが私だよ。最もその考えに至るまでは紆余曲折があったのは認めるところだ。それがもっと前から分かっていればと心から思う」
「ですが全ては過ぎ去りしことですな」
「不合理だよ」
「不合理?」
「先ほどの君の台詞だ。君がその全てを本当に過ぎ去りし事だと思っているのであれば、私と同様に君はこの地に来たりはしない」
「アルヴィン殿?」
「君と私は同じなのだよ。たとえそれが過ぎ去ってしまったことであっても、まだ何か出来ることがあるのではないか?そう思ってここに来たのだ。だから私は君をこの酒宴へと招待させて頂いた。ある意味、君は私の戦友なのだからな。そして君が最後に会った時に私に言った、『借り』を取り立てさせてもらうためでもある」
「それが魔王殿が自らこの地に来られた理由ですか?」
「ウンベルト殿、国では私のことを国王と呼ばせているのだ。それに今の私は休暇中だ。私人だよ。ただの通りすがりに過ぎない」
「休暇中?ハハハ、貴方らしいですな。では陛下、いやアルヴィン殿、貴方は私からかつての借りの代償に、何を取り立てたいのですかな?」
「取り立てられる物はただ一つではないのかな?」
「はて、何も思いつきません。何せ人が生き残れた借りを返すのですからな」
「ウンベルト殿、金だよ。私は君の借金取りだ」
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