招待
夕刻の喧騒と打って変わって、城の大広間は静寂に包まれている。アルトマンは明かりもない暗闇の中、そこに置かれた黒い騎士の礼装をじっと見つめた。その黒い胸甲には、うっすらとアザミの紋が浮き出ているのが見える。
食事の際の汚れは、オーギュストとクラリーサの手によって無事になんとかなったらしく、明日は白の礼装で出られることになったらしい。出番がなくなったこの黒い礼装は、イレイェンの言う「こけおどし」として、広間の領主の座の横に飾られていた。
アルトマンはその礼装の前に一歩近づくと、そのアザミの紋を指で撫でた。可憐とは言い難い、むしろ何かが近づくのを避ける針のような花びらと、その花の下にアザミであることを如実に知らせる鋭い棘が描かれている。それはこれを着ている者に触れたならば、その手を貫こうとしているかのようだった。
「テレサか?」
「はい。準備が整いましてございます」
アルトマンの背後で声が上がった。
「では赴くとしよう」
「外で眷属がお待ちしております。ご指示の通り、私めはこれより相手の招待に行かせていただきます」
「宴の場までの距離はどの程度だ?」
「羽であればものの数分かと思います」
「ならば我が足で向かうとしよう」
「ですが……」
「テレサ、これは私の我儘だよ」
「我儘?」
「そうだ。私は学んだのだよ。我儘というのは何も己の身のためだけの、不合理なものとは限らないとな」
「はい。全ては陛下の御心のままに」
テレサがそう告げるや否や、幾つかの漆黒の黒い影がアルトマンの回りを包んだ。そしてあらゆるものからその身を隠した。
* * *
ブエナ大公・ウンベルトは天幕の中に広げられた地図を見つめていた。その周りでは二人の男が地図を指差して話をしているのが見える。
「トーラス城へ通じる街道は基本的に3つです。もっとも街道と呼べるようなものは我々が進んでいる、このトーラス街道以外はありません。ですのでこの丘を保持すれば、その3つの道筋を全て監視できます。私の率いる先遣隊はこの丘を確保して、そこから街道筋に軽騎兵による偵察隊を派遣します」
ウンベルトの三男であるフェルナンデスが、兵士長のグスタフに向かって地図上で駒を動かしてみせた。ウンベルトにとってフェルナンデスは年をとってからの子供であり、領地を守っている長男や、魔族との国境沿いに駐屯している次男と違って、まだまだ子供の様なつもりが抜けないが、その口から出ている軍略そのものに間違いはない。
「坊ちゃん、もといフェルナンデス殿。先遣隊が敵に奇襲されて各個撃破される可能性や、包囲される可能性については考慮されましたか?地の利は相手にありますぞ」
「はい。その点については考慮しました。今回の先遣隊の役割は偵察であって、威力偵察ではありません。ですので先遣隊の編成は各隊から抽出した軽騎兵を持って当てます。これならば会敵しても包囲される可能性はほとんどないと思います。それに背後に本隊が続いていますので、糧秣の問題を気にする必要もありません」
「各隊から軽騎兵を抽出してしまうと、本隊の偵察能力が著しく制限されますが?」
「はい。それについては先遣隊が偵察済みの地域を通りますし、戦力の彼我を考えると、奇襲などでこちらを混乱させて、少数のもので父上の暗殺を狙うぐらいしか方法がないはずです。本隊は移動速度を気にせずに、重厚な陣容を引いて、本陣の安全を最優先で移動すれば、相手としては手の打ちようがないと思います」
「ふむ」
「グスタフ、まだ何か気になる点はあるか?」
「いや、フェルナンデス殿を見ていると、昔のウンベルト様を思い出しますな」
「その様なものを思い出すということは、グスタフ、お前も年を取ったということだ」
「左様ですな。今回のこの遠征については行軍演習並びに狢共への牽制の意味もあります。ここまでの軍の動きと統制を見る限り、その目的は十分に果たされていると思います。特に後列の補給などというのは演習ではなかなか確認できませんが、現時点では何の問題も起きていません。私としては、多少なりとも問題点が出てくれた方がむしろ安心できるぐらいですな」
「グスタフ、それは無理筋であろう」
「ですが、今回これほどの軍勢を率いる必要はあったのでしょうか?」
フェルナンデスが二人に向かって口を開いた。
「もちろんだ。我々が軍の主力を動かしても、王宮側に目立った動きがないことの確認と、我々が実際に領外に軍を短時間に動かせることの示威だ。狢共が何かをする前に、我々は奴らの喉元を抑えられる」
ウンベルトがフェルナンデスに答えた。ウンベルトにはもっと別な理由もあったが、それをこの場で口に出したりはしない。
「むしろ、それはこちらが軍機として秘匿しとくべきものなのではないでしょうか?」
「軍も戦も政治の手段だ。軍とはそれを行使しないために存在するものらしい」
「そうなのですか?」
「そうだ。フェルナンデス。私もお前ぐらいの年にそれを実際に学んだのだ」
「魔族との先の大戦ですね」
ウンベルトはフェルナンデスの顔が少しばかり高揚するのを見てとった。戦の話に心を躍らせている様ではやはりこの子はまだまだ青い。
「ああ、それはひどいものだったよ。大義も何もあったものではない。ただの権力闘争の成れの果てだ」
「そうですな」
グスタフもウンベルトに同意して見せる。
「さて、これ以上何か喋り始めると、全て年寄りの繰言になる。今夜はここまでにしよう。明日にはトーラス城だ。フェルナンデス、兵達の統制に間違いがないようにしろ。兵の犯した罪はお前の罪だ」
「はい、父上」
ウンベルトは一礼して天幕を出ていく二人の後ろ姿を見送った。天幕の中に静寂が戻ってくる。聞こえるのは松明の篝火が立てる小さな音だけだ。ウンベルトは野戦用の作戦卓の上に広げられた地図の一点を見つめた。そこには城が描かれており、その下には飾り文字でトーラス城と書いてある。
「本当に何の大義もなかった」
ウンベルトの白い髭に覆われた口から言葉が漏れた。先の大戦の時と同様に、また王都では後継問題に絡んだ主導権争いが始まっている。そして今度は魔族に代わって、このトーラスの地をその舞台にしようとしている。あれほどの犠牲を払ったというのに、王宮の狢達はそこから何も学んではいない。
ウンベルトはしばし目を瞑ると、女と酒にしか興味がないような軟弱を絵に描いた王子の一人が、王宮で「トーラスの地の不正を正す」と剣に片手をかけて宣言した姿を思い出した。先の大戦でトーラス侯爵家に行った自分達の所業を思えば、絶対に有り得ないことだ。今思い返しても、憤怒の炎で身が焼けそうな思いがする。
ウンベルトは大声でその場を制すると、先ずは自分が監察官として事実関係を確認すると宣言した。王子が何かを言おうとしたが、ウンベルトの目を見てその場にへたり込んだ。
かつて王国第一の騎手にして、非の打ち所がない将軍だったトーラス侯アルヴィンの所領を、王宮の狢共の歯牙にかけるなど、ウンベルトにはとても耐えられない話だった。そして魔族に対して行ったことを、この国内で、しかもトーラスの地で再び行うなどと言うのは、絶対にあってはならぬ事だ。
その後は誰も文句を言うものはいなかった。それはそうだろう。ウンベルトの目は怒りに燃えていたのだから。ウンベルトはそのまま領地にとって返すと、すぐに軍を編成した。
「本当に何も学んではいないのだな」
ウンベルトの口から再び言葉が漏れた。自分がフェルナンデスぐらいの年の頃に勃発した、先の大戦の時もそうだった。
そもそも魔族と人の間では寿命も身体能力も全く違う。人が有利なのは数と増え方だけだ。そのせいか魔族達はまるで狩でもするように人の領域に攻め込んできては、それに飽きたかのように去っていくのを繰り返していた。その攻め方も自分達の能力に任せた力押しだけだ。先代の魔王は特に好戦的であり、人が国境に築いた砦のいくつかを落として、それを占拠していた。
だが統制された軍による分断、各個撃破ができれば人にも勝機はある。それを目的に父やトーラス侯は己が軍を鍛え、国境を守っていた。
そこに魔族の間で政変があり、魔王が代替わりした。それもまだ若い息子に変わったという話だった。そこで継承問題で点数を稼ごうとした第二王子が、その後ろ盾の貴族達と共に、今が好機だとばかりに魔族領への進軍を提案した。その前の戦で占領された国境沿いの砦を取り戻し、今こそ魔族達を根絶やしにするのだと。
しかし当時の軍の中心だったトーラス侯アルヴィンや、ウンベルトの父は遠征に断固反対した。どうみても魔族には混乱の兆候などなかったのだ。それどころか、国境沿いにある魔族軍は一新され、むしろ統制が強化されているようにしか見えないと報告した。その時に父は魔王軍を称して、まるで我々の軍隊以上だと言っていたのを思い出す。
だが王宮と貴族達はそれを一切無視した。
軍が編成され国境に向かう。そしてそれがウンベルトにとっての初陣だった。そこから先を悲劇の一言で括るのはあまりに大雑把すぎるほど救いがない戦いだった。
最初は一見すると連戦連勝の様に見えた。魔族達に占領されていた国境の砦は、さほどの抵抗が無いままに人の手によって落ちていった。狢どもは狂喜乱舞した。父達は恐怖心に囚われていただけの臆病者で、全て間違っていたのだと。そしてそれに乗り遅れない様にと、第一王子達の一派も参戦した。
その時だった。人が占領した砦に新しい魔王から使者が送られてきた。その使者は命が惜しかったら、今すぐ陣を解いて人の国に帰れと告げた。もちろん狢達はそれを無視した。それどころか魔族がこちらを恐れている証拠だと結論付けた。
だがそれは紛れもない事実だったのだ。そこに駐屯する兵、王子や貴族達も巻き込んで、砦が次々と破壊されていった。それは破滅としか言えなかった。その後には幾多の死体を埋め尽くした瓦礫しか残らない。それまで魔族との戦というものは、国境にある砦の取り合いだったのだ。その全てが変わった瞬間だった。
そこからの戦は全てが違った。魔王軍は隊列を作って、ただ突撃するだけの野戦など一切挑んできたりはしない。後列の段列に狙いを絞って、縦横無尽に軍の背後を蹂躙した。まさに蹂躙だった。後列は切り刻まれ血の池に浮かぶ、かつては体の一部だったものへと変えられた。
前線も崩壊した。兵達は食糧を奪い合い、馬を殺して食べ、そして飢えた。貴族達はお互いにその責任のなすりつけあいのみに終始した。それでも少数のものが人の地まで戻ってこれたのは、統制が取れていたブエナ大公軍と、トーラス侯爵軍が後列を維持し、殿を保てていたからだった。だがそれでも人の地に戻ってこれた少数の者達はもはや動くことすらままならない。誰もが思った。
「人の世が終わる」
そこでどこかの痴れ者が王宮で叫んだらしい。伝説では人の世が終わりを迎えそうな時に、勇者が魔王を撃って人の世を守ったと。その勇者の血を引くトーラス侯なら魔王を倒し、人の世を守れると。
「馬鹿な話だ」
おとぎ話だ。武門の貴族の家にはそのようなおとぎ話を多かれ少なかれ伝えている。その程度のものだ。だが混乱の極みにあった王宮は、トーラス侯に真顔でそれを命じた。トーラス侯こそがかろうじて人の盾としてその背後を守っていたのにだ。
だが子供を人質に取られたトーラス侯はそれを受け入れた。そしてウンベルトとその父、ブエナ大公に語った。これは止められなかった自分達の責任なのだと。
ウンベルトはその時のトーラス侯アルヴィンの背中と、それを見て、決して涙など流したことのない父が涙を流したのを見た。そして全てが本当に崩壊した。父も死に叔父達も全て死んだ。「人の世は本当に終わる」、ウンベルトがそう思った時だった。
父の後を追うと覚悟を決めたウンベルトの天幕に、突然に背の高い何者かが現れた。魔王だった。魔王は一言、ここの軍の責任者は誰かとウンベルトに問いかけた。魔王は自分だと思うと答えたウンベルトに対して、一言「では停戦交渉を始めるとしよう」と告げた。その時に自分を見ていた漆黒の瞳は今でも夢に見る。
自分は今まで一体何をしていたのだろう。ウンベルトの胸に様々な思いがよぎった。己と己の領地の復興にのみ目を向けて、それが誰の犠牲によってもたらされたかということを忘れていた。いや意図的に思い出そうとしなかったのだ。自分は償おうとしても償えない多くの罪を犯している。
あの地にはあの方の孫娘がいるという。自分はその子に自分が犯した罪の何を謝れるだろうか?だがせめて救える何かがまだあるのであれば、それを救わねばならない。それがなければこの全てがなかったのだから。
ウンベルトがそう考えた時だった。天幕の中の明かりが大きく揺れた。外に風の気配はない。ウンベルトは腰に帯びた剣に素早く手を伸ばした。だが、それよりも先に自分の喉元に何かが当たっているのが分かった。天幕に写っている影は、自分の背後に何者かが立っているのを微かに映している。
「お静かに願います。ブエナ大公・ウンベルト閣下ですね。主人から宴にご招待したいとのことでお迎えにあがりました」
それは意外なことに女性の声だった。
「ガブリエルの手のものか?」
「ガブリエル?我が主人はその様な下賤なものではありません。遥かに尊きお方です」
そう告げると、声の主はウンベルトの前に進み出て、胸に手を当てて礼をして見せる。漆黒の髪に漆黒の黒い羽根のドレス。いや、これはドレスではない。ウンベルトはこの姿をかつて目にした事があった。それも先の大戦の戦場でだ。
「黒き翼の者」
そう告げたウンベルトの声は震えていた。魔王の親衛隊。
「人間は私達の事をそう呼ぶみたいですね。それに懐かしい呼び方ですこと」
そう言うと相手はウンベルトに向かって小さく首を傾げて見せた。
「ならばご理解いただけるかと思います。間違って大声を上げて騒ぎになってしまったりすると、騒いだ者達全員を静かにさせることになります」
ここには千を超える兵がいる。他の者ならば片腹痛いとか思うかもしれない。だがウンベルトはそれが決して誇張でも何でもない事を知っていた。大戦の時にはこの者達によって、数千の兵があっという間に血の池に身を横たえたのだ。
「無論だ。ではその招待とやらをお受けすることにしよう」
ウンベルトの言葉と共に、どこからともなく現れた黒い影がウンベルトの周りを囲んだ。そしてウンベルトの老いた体は月のない夜よりも暗い闇に包まれた。
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