幸福

「トーレス侯の御成じゃ。お前達頭が高いぞえ!」


 城の広間に響き渡ったイレイェンの言葉に、雑巾を片手に広間の清掃を行なっていたアーベル達が手を止めた。


「トーレス侯って、セレナの事じゃないか」


 そう口にしながらうんざりした様子で振り返ったアーベルの手から雑巾が落ちた。隣にいたマリウスもあんぐりと口を開けて入口を見ている。アーベル達の目の前では、いつの間にかオーギュストが床に跪いて、頭を下げている姿も見えた。


「お前達、この城の主人に対する礼儀がなっていないぞえ!」


「おい!」


 オーギュストに促されて、アーベルとマリウスも慌てて床に膝をついた。


「イレイェンさん、ちょっと冗談はやめてください」


 入口からセレナの慌てた声が上がった。


「冗談ではないぞぇ!小娘、この城の主人としての自覚が足りぬぞ!」


「それになんであんた達まで床に膝なんてついちゃって、一緒に悪ノリしているのよ!すぐに立ちなさい!」


 セレナの言葉に、アーベルとマリウスはお互いに顔を見合わせた。


「だってな」


「うん。そうだね」


 アーベルの問いかけにマリウスも言葉を濁す。


「何が、だってなのよ!?」


「お前、本当にセレナか?」


「えっ、なに、なに、少しは見直した?」


「皆さん、明日の料理の試食が出来た……えぇええ!」


 背後から料理らしきものを手に、広間に入ってきたクラリーサが途中で固まった。その手から落ちた盆を、背後にいたアルトマンが素早く空中で受け止めて見せる。


「はて、どこかから騎士様でもいらっしゃったんですかの?」


 その背後にいた老料理人の口からも戸惑いの声が漏れた。


「セ、セ、セレナだよね」


「何言っているのよ、私よ。私に決まっているじゃない」


「だってセレナ、その姿は?」


「あ、これ?イレイェンさんに見立ててもらったの?どう、似合っているかな?」


 そう言うとセレナはクラリーサの前でくるりと回って見せた。女騎士の正装の長いスカートの裾がふわりと浮いて、その下にある白いタイツと、白いブーツが見える。そして三つ編みにして一本にまとめた髪がその動きに合わせて跳ねた。


 クラリーサの正面を向いたセレナの胸には、白銀の礼装用の薔薇の浮き彫りが入った胸甲があり、天井の明かり窓から入ってくる夕刻に近いオレンジ色の光を受けて、キラキラと光っている。


「セレナ、どこからどう見ても白銀の騎士様よ!それにその髪って?」


 そう言うと、クラリーサは胸元へと降りてきたセレナの髪を指差した。


「これ?イレイェンさんに髪の手入れをしてもらったら、染めていた色が落ちちゃった」


「色が濃くなったと言っていたのは?」


「ごめんなさい。あれは嘘。おばあさんみたいでみんなに気持ち悪がられるかと思って染めていたの」


 セレナはそう言うと、自分の銀色の髪を片手で撫でた。


「うんうん、気持ち悪いなんてことない。私は小さい時からセレナのその髪が大好きだったの。セレナはきっとお月さまからきた女神さまの子供だと思っていたぐらいよ」


「もう、リサったら。私が月の女神様なら、リサは大地の女神様ね。豊穣の女神様よ」


「セレナひどい!私の胸のことを言っているんでしょう!?でもセレナ、今日は本当に月から来た騎士様見たいよ。いや白薔薇の騎士様ね!アーベル、マリウス、そうでしょう!?」


「ああ」「うん」


「もう、貴方達は本当に感動を口にする言葉を知らない人達ね。そうですよね、アルヴィンさん!」


「そうだな。セレナ、侯爵の名に恥じぬ姿だよ。見事だ」


「そ、そ、そうですか?」


 アルヴィンから誉められたセレナの頬が真っ赤に染まった。


「お主達、褒める相手を間違えておるぞえ。そこな小娘を化けさせたのは妾の腕ぞ。それに寝室の隠しクローゼットからそれを見つけたのも妾じゃ。髪も染めていたとは片腹痛いぞえ。泥水につけていただけの様なものじゃ」


 そう言うと、イレイェンは「ダン!ダン!」と足で床を踏み鳴らして見せた。


「最も妾の方がこの小娘より余程に似合うのじゃが、妾には少しばかり袖と裾が長い。それにその胸甲は妾には苦しすぎるぞぇ」


「な、なな……」


 セレナが視線を下へと向ける。ついで、イレイェンとクラリーサの胸を見ると悔しそうに言葉を飲み込んだ。


「それにアザミの紋が入った黒い礼装もあったぞえ。洗ってやったら髪がこの色だったので、どちらにするか迷ったのじゃ。でも小娘には黒はまだまだ早いぞえ」


「えっ、どう言うこと?」


 セレナがイレイェンに問いかけた。


「お前には黒を着るほどの色気はまだないぞぇ。それよりも泥を塗っておった方がまだまだ似合うておる」


「ど、泥!」


「はっ、間違いない!」


「アーベル!あんた死にたいの!?」


「マリウス、俺を助けろ!」


「マリウス、そこを退きなさい!今すぐその口を黙らせてやるんだから!」


 セレナが広間の中でアーベルを追いかけ回す。


「イレイェン嬢。黒い正装にアザミの紋と言ったか?」


 その二人を呆れた顔で見ていたイレイェンにアルトマンが声をかけた。


「そうじゃ、何か気になるのかえ?」


「いや、なんでもない。アザミとは珍しいと思っただけの事だ。そんなことよりも君達に頼みたいことがある。明日の料理の試食だ。できれば、冷えないうちに味わってもらいたいのだが?」


「そうよ、セレナにアーベル!追いかけっこなんてしている場合じゃないわよ。アルヴィンさんの料理はすごいんだから」


 クラリーサはそう二人を怒鳴りつけると、セレナとアーベルの二人の手を掴んで、広間の中央にある長机の方へと引っ張っていく。そこではアルヴィン達が運んできた料理が湯気を立てているのが見えた。


「食事よりも人手が足りませんので、明日の配膳の練習をさせるべきでは?」


「それは後でもいいのではないかな?できれば先に味わってもらって、味に関して君たちの意見を聞きたい」


「オーギュスト、細かいことは後で良いのじゃ。妾もこの小娘を化けさせるのに腹が減ったぞえ。お前も席について食べや」


「よろしいのですか?」


「お前は細かすぎな上に心配しすぎぞえ。この田舎者達を少しは見習ってもいいぐらいじゃ。小娘、どこに座っておる?お前は女主人ぞえ、主人の席に座れや。それにそこの田舎者ども、主人の挨拶の前に口に入れたりなど決してするまいぞ」


 早速に料理を口に入れようとしていた、アーベルとマリウスが慌ててフォークを皿へと戻した。それを横目で見ながら、イレイェンは席から立つと、ドレスの裾を軽く上げて、


「セレナ様。食事の準備が整いましたようです。皆の者にご挨拶をお願いいたします」


 と告げて席についた。


「えっ!?ええと。皆さん、今日はお疲れ様でした。明日は査察官がこの地に来ます。でも今はそんな事はどうでもいいです。私は皆さんとこの食事ができることを、とても嬉しく、そして誇りに思います。だからどうか皆さん、一緒に食事を楽しみましょう」


 セレナはそう告げると、大きく息を吸った。


「では、いただきます!」


「いただきます!」


 そう言葉を発するや否や、アーベルがお預けをされていた犬のように皿の中の肉にフォークを突き立てると、間髪入れずにそれを口に運んだ。マリウスもシチューの皿に顔を埋めんばかりにしている


「な、なんだこれ!」


「どうした?口に合わなかったか?」


「ちっ、違う。う、うまい!こんなうまいものは食ったことがない。これ本当にただの肉か?塩を振っただけとは全然違う。いや、今まで食べていたものはなんだったんだ!?」


「リサ、これって本当に美味しい」


 料理を一口、口に運んだセレナも感嘆の声を上げる。


「でしょう?」


 二人に向かってクラリーサが胸を張って答えた。


「田舎者どもが、普段碌なものを食べておらぬと見える。騒ぎすぎじゃ」


 そう言うとイレイェンは小さく切り分けた肉を、添え物の温野菜と一緒に口に運んだ。だがその顔からいつものイライラした様な表情が消える。


「美味しい。オーギュスト、お前も食べてみなさい」


「イレイェン様?」


「何をしているのです。早く食べてみなさい」


 そう言ってから、イレイェンは皆が自分を注目しているのに気がつくと、ハッとした様な表情を浮かべた。そして慌てていつもの表情へと戻ろうとする。だがその様子はどことなくバツが悪いようにも見えた。


「何をしておるのじゃ、はよ食せや!」


「はっ、はい。頂きます」


「リサ、これってもしかして、やっぱり?」


「そうよセレナ。アルヴィンさんが作ってくれたの」


「お前は一体何者じゃ?どこぞの家の料理人でもしていたのか?」


「私か、私はただの流れ者だよ」


「不合理じゃ!」「不合理よ!」


 イレイェンとセレナの声が同時に上がった。その言葉にアルトマンは微かに口元に笑みを浮かべて見せた。


「それよりも試食用にしては少し作りすぎてしまったようだ。残らなければいいのだが」


「そうね、みんな冷えないうちに食べましょう!」


「おー!」


 口一杯に何かを頬張っているらしく、アーベルとマリウスからくぐもった声が上がった。その声はとても幸せに満ちている。セレナはとても美味しい料理を食べながらも、なぜか流れてくる涙を拭った。これがいつまでもいつまでも続いてくれれば良いのに。心の中にそんな思いが浮かんで来るのを止められないでいる。


「セレナ?」


「本当に美味しい。美味しいよ、リサ。なんでかな、なんでこんなに美味しいのに涙が出るのかな?」


「そうね。きっと心から感動しているのよ」


 クラリーサはそう答えると、そっと差し出した布でセレナの頬を伝わった涙を拭いた。


「そうね、そうだよね!」


「セ、セレナ!」


「えっ、どうしたの?」


「衣装にソースが垂れてる!」


「え、ええーー!」


「この痴れ者が!オーギュスト、すぐに濡れた布を持ってくるのじゃ!」

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