覚悟

「妾は絶対にここから離れぬぞえ!」


 城の広間にイレイェンの声が響いた。その声の先ではオーギュストが膝をついて首を垂れている姿がある。声だけではない。イレイェンは苛立たしげに足で床を「ダン、ダン」と叩いて見せた。


「ですが、先ずは御身の安全の確保こそが重要かと思います」


「身の安全?我は一体何を言っておるのじゃ?安全など何処にもないぞえ!それにお前のことじゃ、妾に薬でも盛って、そこな田舎者共に我の身を頼むつもりだったのであろう!」


「それが最善であれば……」


 イレイェンの言葉と剣幕に、オーギュストが言葉を濁した。セレナ達と言えば、ただただ呆気に取られて二人のやりとりを見ているだけだ。


「ならぬぞぇ。もしもそんな事をしてみろや。妾は気がついたらすぐに首を括ってやる。そして怨霊となって、この地の者全てを呪い殺してやるのじゃ!」


「ひっ!」


 セレナの隣でクラリーサが小さく息を呑むのが聞こえた。セレナから見ても、この娘なら本当に怨霊になりかねない気がする。


「それに外にはあれがおる。外で寝るなど絶対に、絶対に嫌じゃ!」


「あれって?」


 イレイェンの台詞を聞いたセレナが、オーギュストに問いかけた。


「虫じゃ!妾の最も嫌いなものじゃ!そんなものがいるところで寝たりなどできるかぇ!我が身の全てが内から貪り食われてしまうわ」


 セレナの耳に、オーギュストが小さくため息をつくのが聞こえた。


「我儘もいい加減にしてください。ここで死体になれば、そのお体はどのみち蛆の餌です。覚悟を決めてください」


「我儘?それはお前じゃぞえ、オーギュスト。妾達は逃げるのではない。戦うのだ!」


 そう叫ぶと、イレイェンは足を「ダン!」と踏み鳴らすと、セレナ達の方へ視線を向けた。


「田舎者ども、そうであろう?」


 セレナはイレイェンの鋭い眼差しにただ頷くしかない。


「オーギュスト、戦というのは何も剣を交えるだけではないぞぇ。妾達、貴族の女には、いや貴族かどうかなど関係ないぞえ。女には女の戦い方があるのじゃ。覚えときや」


「合理的だな。戦は手段だ。手段である以上、やり方は一つとは限らない」


 アルヴィンのイレイェンに応える声が響いた。


「そうじゃ、そこな男の言う通りぞえ。この城に居るもの一同、覚悟を決めるのじゃ!」


 イレイェンはそう言うと、なぜかセレナの方をじっと見つめた。


* * *


「その上から三段目の茶色い瓶だ。とりあえず3本ほど取ってくれ」


「これかい?」


 アーベルはオーギュストの指示に答えた。


「そうだ。間違っても落としたりするなよ。お前達が一生働いても手に入れられないような代物だ。それにゆっくりと下せ。澱が攪拌されたりしないようにだ」


「はい。はい。何でも言うとおりにしますよ」


 アーベルはマリウスに手伝ってもらいながら、移動式の脚立から背を伸ばして、地下の酒庫の棚からワインの瓶を取り出すと、それを一本づつオーギュストに渡した。オーギュストは手にした角灯で瓶を照らして、中を確認している。


「でもあの娘の言う通りに、こんな酒と料理を振る舞ったくらいで何とかなるのかな?」


 アーベルは体に振ってきた埃を振り落としながら、脚立を抑えてくれているマリウスに声をかけた。


「うん、アルヴィンさんも反対しなかったから、何か考えがあるんだと思うよ」


「アルヴィン、アルヴィンって何かの呪文かよ。それにあのおっさん、料理は任せろと言っていたけど大丈夫なのか?」


「さあ、一応は料理人が一人残ってくれているという話だから大丈夫じゃないかな?それにクラリーサもいるし。リサはアイリさんと同じく、料理がとっても上手だよ」


「呪文の次は惚気か?」


「無駄口を叩いている暇はない」


 床においた柔らかい布が引かれた箱の中に、丁寧に瓶を置いたオーギュストが二人に声をかけた。


「これは澱が溜まりすぎている。別のを出してくれ」


 そう告げると、オーギュストは瓶の一本をアーベルに戻した。


「丁寧に置けよ」


「はい。はい」


 アーベルはオーギュストから瓶を受け取ると、棚の奥の方から別の一本を取り出してオーギュストに手渡した。オーギュストが栓を確認し、角灯で瓶の中を透かして見る。


「ふむ。これでいいだろう。流石は勇者様、トーラス候のお城だ。それにあの男のケチくさいところが、こんなところで役に立つとはな」


「ケチ?」


「そうだ。酒を好むものなら垂涎の品だ。飲まれてしまっていたり、誰かに手に渡っていたら手の打ちようがなかったからな」


 そう言うと、オーギュストはそれを赤子でも抱いているかの様に丁寧に箱の中へといれた。


「俺たちには縁のない話だ。城を枕に一戦するのかと思っていたのに、本当に拍子抜けだな。それになんだあの我儘娘は?虫が嫌いだから逃げたくないだなんて……」


 アーベルはそう言うと、脚立から足を下ろし始めた。


「えっ!」


 脚立から降りたアーベルの口から驚きの声が上がった。アーベルは胸元をオーギュストに掴まれて、壁に背中を押し付けられている。一体いつそれをされたのかも良く分からない。まさに早業だった。


 僅かな油灯に照らされた薄暗い酒庫の中、アーベルの視線のすぐ先には、オーギュストの冷たく自分を見下す表情があった。その目からは殺気の様なものまで感じられる。


「あ、あんた……」


「小僧、お前の目は全くの節穴だな。イレイェン様は虫など気にもされない。お前はイレイェン様が、どれだけの覚悟を持って事に臨んでいるのか分かっているのか?」


「か、覚悟!?」


「お前達が使えもしない剣なんか振るって、切られて死ぬのは一瞬だ。だがイレイェン様やセレナ様は死ぬよりも酷い目に遭うのかもしれないのだぞ。しかもそれは生涯続くかもしれない。それを分かっていながら、お嬢様は覚悟を決めているのだ!」


 オーギュストの言葉に、アーベルとマリウスの顔つきが変わった。


「それが少しでも理解できたなら、この酒を揺らすな。全ての準備に一切気を抜くな。これはお前が棒切れを振り回すより遥かに重要な事なのだ」


 そう言うとオーギュストは丁寧に箱を持ち上げた。アーベルとマリウスもお互いに頷き合うと、残った箱を丁寧に持ち上げて、一歩一歩、慎重に足元を確かめながら、地上へと戻る階段を登り始めた。

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