依頼
アルトマンは割り当てられた居室の中、窓際の椅子にじっと腰を下ろしていた。その顔からは何を考えているのかを伺い知ることは出来ない。
その青白い顔に何かの影がかかった。その影は窓の薄いカーテンの向こう、部屋の外の中庭に向いた小さなベランダから、アルトマンに向かって投げかけられている。
アルトマンはゆっくりとベランダに佇む影の方へ視線を向けた。そこには下弦の僅かな月の明かりが何者かの姿を映している。それは肩から腰へと続く優美な曲線を描いた、女性のものと思しき影だった。
「テレサか?中に入るが良い」
「はい、陛下。失礼させて頂きます」
ベランダに続く扉が音もなく開くと、そこから漆黒の長い髪に、黒い羽根のドレスを纏った女性が部屋の中へと進み出た。そしてアルトマンの前に跪くと深々と頭を垂れる。
「お気を煩わせまして、大変申し訳ございません」
「何があった?」
「はい。アルトゥル様が、陛下が離宮にいらっしゃらないことにお気づきになられました」
「アルトゥルが?シーロに何かあったのか?あれは私の姿や声を瓜二つにまねられるはずだが?」
「はい。離宮に清掃に入ったものから、ゴミが散らかっているとの報告がアルトゥル様の耳に入ったようです」
「ゴミ?」
「はい。シーロが離宮にて分を弁えぬ滞在をしたようです。この件が漏れた際に逃亡を図ろうとしましたので、こちらの手のものにて身柄を押さえました。許し難き行状です。然るべき処分を……」
「ハハハ!」
だがテレサが最後まで報告する前に、アルトマンの口から笑い声が響いた。
「ゴミか。なるほどな」
目の前で上がった笑い声に、テレサと呼ばれた女性が凍りついた表情でアルトマンを見上げた。そしてとてつもない恐怖にでも襲われたかの様に身を震わせる。
「申し訳ありません。私どもの監視が至っておりませんでした。関係者一同を即刻処分いたします。私自身についても、陛下の裁定が下るまでの間、謹慎させていただきます」
そう言うと床に額がつきそうなほど頭を下げた。
「処分?何を言っているのだテレサ。不合理だ。これは私の個人的な依頼であるから、処分などの対象になるようなものではない。せいぜい依頼者として、シーロに払う手当てについて減額するぐらいのものだ」
そう告げると、テレサに向かって再びくぐもった笑いを漏らした。アルトマンが笑い声を上げるのを初めて聞いたテレサは、何をどう答えて良いのか分からず、ただじっと身を固くしている。
「そもそも、姿と声を真似たぐらいでなんとかなると考えた私が浅はかだったな。姿や声はその者の本質ではないのだから、元々無理な依頼だった。これはむしろ私がシーロに謝るべき話だ」
「へ、陛下!」
驚きのあまりテレサの口から言葉が漏れた。アルトマンは片手を上げると、テレサに向かって「シー」と口元に指を当てて見せた。
「テレサ、もう休んでいるものがいるのだ。少し声を小さく頼む」
「はい、申し訳ございませんでした」
「それに私は休暇中なのだよ。これは私の権利であると同時に義務でもある。だからと言って面倒ごとを避けようとしたのが間違いだった。アルトゥルには私の事については詮索無用とだけ伝えておいておくれ」
「は、はい。承知いたしました。私自身の処罰については是非に裁定のほどをお願いいたします。一時でも陛下の所在を見失うなど、あってはならない失態でございます。どのような処分でも甘んじて受ける覚悟でございます」
「不合理だな。お前が責任をとるようなものではない。その責任は計画者である私に帰すべきものだ。お前がどうしても処罰を望むと言うのであれば、私は私自身を処罰しなければいけない事になる」
アルトマンの言葉にテレサが慌てて顔を上げた。
「滅相もございません!それに陛下のなさることに間違いなどありえません!陛下あってこその我々です」
「テレサ、間違いを犯さない者などいない。仮に神という者がいてもやはり間違いを犯すと私は思う。それに国も仕組みの一つだ。私はその仕組みの中である役割を担って居るにすぎない」
「陛下、お言葉ではございますが、私にはとてもそうとは思えません」
「そうだろうか?皆がそれぞれに役割を持っているとも言えるのではないかな?それを適切に維持できること、つまり仕組みを適切に運用、変化に合わせて適合させて行くことが政治の本質なのだよ。決して特定の個人の都合や意図によるものであってはいけないし、特定の個人に依存したものであってもならない」
アルトマンはそう告げると、テレサの方を小さく指差した。
「テレサ、だから私もお前も同じだ。そしてお前はやるべき役割を十分に果たしてくれている」
アルトマンの言葉に、テレサは今度は感動のあまり身を震わせた。
「もったいないお言葉です。たとえこの身がどうなろうとも、指先の一つが動く限り、陛下の手足としてお役に立つように努力させていただきます」
テレサはアルトマンを尊敬の眼差しで見つめると、決意を持って答えた。だがアルトマンはテレサに向かって首を振って見せる。
「不合理だな」
その言葉にテレサの顔が僅かに曇った。その目は何かを恥じているかのようにも見える。
「勘違いするな。お前の能力についてではない。考え方だ。お前が役割を果たすべき相手は私ではない。民であり、その象徴としての国だ。だがそれがお前の信念であるならば、私はそれを認めるべきなのだろうな」
「はい。それが私の望みの全てです」
テレサの顔に微かに笑みらしきものが浮かんだ。
「テレサ、お前の眷属もこちらに来ているか」
「はい」
「一つ頼みがある。これは私的なものなので、お前に頼むのは筋違いではあるのだが……」
「何なりとご命じください」
「ではある人物を私の私的な酒宴に招待するのを手伝って欲しい。昔の知り合いだ。最も向こうが私の事を覚えているかは分からないがな」
そう言うと、アルトマンは一枚の紙をテレサに差し出した。テレサはそれを額へと押し抱くと、胸元へと仕舞い込む。
「それと酒宴であるからには酒があった方がいいだろう。古い知り合いを招くのに恥ずかしくない程度の酒の準備を頼む」
「承知いたしました。どちらまでお招きすればよろしいでしょうか?」
「静かなところが良い。それにちょうどこの辺りでは桜が見頃を迎えたようだ。この城の先にある丘の、桜の木の下にでも招待する事にしよう」
「承知いたしました。ではすぐに手配をさせて頂きます」
「可能な限り穏便に頼む。これは招待だからな」
「はい。肝に命じておきます」
テレサはそう答えると、アルトマンに頭を下げたままベランダの方へと下がった。そこから部屋の中に微かな風が流れ込むと、ベランダには漆黒の羽根を広げたテレサの優美な姿があった。そしてその影はアルトマンに向かって一礼すると、音もなく闇の中へと飛び去っていく。
アルトマンは立ち上がると、テレサが去ったベランダへと出た。夜風に侯爵旗がはためく音だけが辺りに響いている。中庭を挟んで反対側には領主の居室があり、そこではセレナ達やイレイェンらがしばしの休息を取っているはずだ。
「仲間か」
闇の中ですぐに小さくなっていく影を見ながら、アルトマンの口から声が漏れた。
「私も君達同様に、誰かの助け無しでは何もできない存在なのだよ」
アルトマンは静まり返った中庭の反対側を見つめながら、小さく呟いて見せる。その顔には彼の祖国に居るものがほとんど見たことがない表情、笑みが浮かんでいた。
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