休息

 城の尖塔の上で、一枚の大きな旗が夜風に吹かれてはためいている。その旗には二本の交差した剣が描かれていた。一本は白銀の剣。もう一本は漆黒の剣だ。その旗、侯爵旗はこの城に城主が、トーラス侯がいる事を示している。セレナが城に戻ってきたのだ。


 その旗の上、尖塔の先にある漆黒の闇の様な黒い服を着た男が、城壁の上からその旗がはためくのをじっと見ていた。松明の明かりがなければその姿は闇と同化していた事だろう。その顔は松明の黄色い光に照らされていても、なお月明かりの下に居るかの様に青白く見える。


 アルトマンは視線の先に何かをかざして見せた。先ほど城壁の上で見つけた、一枚の黒い羽の様なものだった。それは松明の明かりの下でも、その黄色い光を全て飲み込んで、黒曜石で作られたかの様な光沢を放っている。アルトマンが手を離すと、それは東からの風に乗って、夜の闇の中へと消えていった。


「どうした?兵達の仇でも取りに来たか?」


 アルトマンは背後を振り返らずに答えた。


「兵?あのならず物達ですか?この城に残っているもので、彼らの仇なんて打ちたいと思うものは誰も居ませんよ。それよりも、皆さん貴方の戻りが遅いのを心配していました」


 背後から男の声が答えた。アルトマンは声がした方を振り返った。そこには侍従服の上着を肩にかけただけのオーギュストが立っている。


「それは大変失礼した。若者達の宴に私の様な者がいては、場が白けると思っただけの事だ」


 アルトマンはそう言うと、城壁の反対側にある食堂の方を指差した。小一時間ほど前までは、そこからセレナとイレイェンの笑い声や怒鳴り声に、クラリーサのそれを宥める声やら、アーベルとマリウスが逃げ回る声など、それはとても賑やかな声が響いていた。皆疲れて居室で寝たらしく、今は何の声も聞こえはしない。


「従僕というものは、その出で立ちにとても気を使うものだと思っていたのだがな?」


「これですか?」


 オーギュストが自分が肩にかけている侍従服の上着を指差した。


「自分のは汚れてしまいましてね。運が悪いことにもう一着も泥で汚れてしまっていまして、他の者の上着を借りました。少し小さいので、ずっと袖を通していると肩が凝ってしまうんです。ですが、イレイェンお嬢様の手が汚れるよりはよほどマシです」


「不合理だな」


「不合理?何がですか?」


「君が私にまで嘘をつくことだよ。それにあの娘も分かっていると思うがな?」


「はて?何の事でしょうか?」


「君は優秀な男だな。決して自分からは余計な事は言わない。だが君の服はそうではなかった。元領主代理を君が殺したのであれば、君の服はあれほど血に染まったりはしない。君は彼を助けようとしたのだろう?おそらくはまだ息があって、出血を止めようとしたのだな。だから君の服と手があれだけ血だらけになったのだ」


「あなたの目からは石の壁も心の壁も、何もそれを遮ることができない様に思えますね」


「合理的に考えただけの事だ。殺してしまっては今後の交渉材料にも何もならない」


「あなたは一体何者なんですか?」


「ただの通りすがりだよ」


「筋金入りの秘密主義者なのですね」


 そう言うと、オーギュストは肩をすくめて見せた。


「気になるかね?」


「ええ。ですが少なくともイレイェンお嬢様と私の命の恩人なのは確かです」


「元領主代理を殺したのは、やはりあの剣士か?」


「ええ、後ろ姿だけは捉えました。足は骨折した振りをしていただけですね。間違いなくガブリエル様を扇動する役を命じられた、王宮のどこかの手先です。まあガブリエル様は自分があの者の手の上で踊らされていたとは、露ほども思ってはいなかったでしょうが……」


「本人が思いついたように仕向ける。正しい扇動者の在り方だな。それに護衛役というのは常に側にいる。それでいて言葉を発する立場ではないから、その言動も警戒されにくい。合理的だな」


「アルヴィン殿、あなたに一つお願いがあります」


 オーギュストはそうアルトマンに改まって告げると、背筋を伸ばして頭を深く下げた。


「お願い?」


「あの村の者達と一緒に、イレイェンお嬢様も連れて逃げてはもらえませんでしょうか?路銀と当面の食料や夜営に必要なものは私の方で用意しました」


「なるほど、それでガブリエルとやらには生きていて欲しかったのだな。裁かれるべき身を立てて、あの娘が逃げる時間を稼ぐつもりだったのか」


「はい。本人は知りませんが、あれは私の腹違いの妹なのです」


「しかしあの娘も言っていたが、セレナ同様に落ち延びられる可能性は低いのではないかな?」


「ですが可能性が全くない訳ではありません。ここに残っていれば、待っているのは間違いなく死です。あるいは死より酷い結末です」


「来るのは査察官であって、討伐軍ではないと聞いたが?」


「同じ事ですよ。それも今回の査察官は、ブエナ大公・ウンベルト閣下です」


「ウンベルト?」


「ご存じですか?鋼鉄公です。あの方には金や女はもちろんのこと、媚びも泣き落としも効きはしません。そしてあの方の率いる軍に勝てるものなど、この国には何処にも居ません」


「なるほど。それで猶予はどの程度あるのだね?」


「ユーカス川を越えたとの報告がありました。遅くても3日以内、早ければ明後日にもここに着くと思います。明日の夜にはトラバス山の山麓に、大公軍の篝火を見ることになるのは間違いありません」


「ならば、今夜はゆっくりと休むことが出来ると言うことだな。今の彼らには休養こそが必要だ。いや彼らだけではない。我々にも必要だ」


「イレイェンお嬢様の件は!?」


「不合理だよ。我々だけで勝手に決めるのは。己の運命は己で決めるべきものだ。明日、本人に確かめてみることにしよう。それに君も私達も彼ら自身をもっと信用すべきではないのかな?彼らには己が運命に逆らうだけの決意と能力があるように思えるのだがね」


 そう言うと、アルトマンはオーギュストに軽く手を振って、居室に割り当てられた部屋に向かう階段をゆっくりと降りていく。オーギュストはアルトマンに向かって声をかけようとしたが、頭を振ると夜風に袖を靡かせながら、アルトマンに続いて階段を下へと降りていった。

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