襲撃

 頭の上では一匹の鳶が、春めいてきた薄曇りの空を、ゆっくりと弧を描いて飛んでいるのが見えた。兵士長マクシムはその先で微かに上がっている煙を見つめる。そこでは日々と変わらない人の営みが行われているようにしか見えない。一応は偵察に送った兵も、特に異変なしと先ほど報告に戻ってきている。何も問題はない。


「面倒なだけだな」


 マクシムは髭で覆われた口の端から、そう独り言を漏らした。全部殺してしまえるのであれば問題はない。だが今回は一人の女だけは絶対に殺すなと厳命されている。しかし放たれた矢というものは、都合よく的を選んでくれたりはしないものだ。


 ともかく若い女には、いや女には矢は放つなと兵達に言っておく必要がある。最も兵達はそんな事を言わなくても、よほどのことがない限り女に矢など放ったりはしない。後の楽しみというものがなくなってしまう。


 マクシムは馬上から背後に続く兵達を振り返った。あのケチ野郎が金を出し渋るせいで、人数は50名ほどしかいない。だが皆が鋼鉄の鎧を装備しており、その銀色に輝く姿は、側から見れば中々壮観に見える。


 最も鎧はこちらであつらえたものではない。元々は勇者の血筋とかの居城だったトーラス城の倉庫にあったものだ。流石に元勇者の居城だっただけの事はあって、置かれていた武具の数々は立派なものだった。木偶の棒達には勿体無いくらいの上等なものだ。自分の腰にある見事な剣もその倉庫から拝借している。


 あのケチ野郎は傷が付くとかで、この武具類を使うことすら嫌がったが、そこはマクシムが押し切った。この銀色の鎧のハッタリは色々なところで十分に役に立ってくれている。


「やはり面倒だな」


 マクシムの口から再び独り言が漏れた。別に全員殺せとか、捕らえろとかは言われていないが、その娘に森にでも逃げ込まれたりしたら、森狩りをしないといけない。こんな鎧を着て森の中に入るなんて言うのは、重労働以外の何物でもない。脱いだら脱いだで、今度は狙撃される危険がある。


 別に村の中で潰した家畜でも食べながら待っていてもいいのだが、絶対に殺すなと言われているのが若い娘だというのが問題だ。兵士達は間違いなく好き放題する。いや、殺すなと言われているだけだから、少々傷物になっても命さえあれば問題はないとも言える。それでいい。十分だ。


 唯一気掛かりなのが、オーギュストが口にした流れ者だが、たかだか一人だ。間違っても一人でかかったりせずに、何人かの槍で囲めばそれでお仕舞だ。剣技とかいうのは女達の前で見栄を張る時の為のもので、戦場で役に立つようなものではない。そもそも人間一人でできることなどたかが知れている。


 マクシムはそこまで考えを馳せると、再び村の方を眺めた。この川沿いの田舎道も終わり、村の入り口へと差し掛かっている。辺りには春に合わせて土を掘り起こしたらしい畑が広がっており、その先には先ほどと同様に煙をたなびかせている家々が見える。代わり映えのないつまらない景色だ。


 マクシムは遠い昔に自分が飛び出してきた村を思い出した。その時も剣を手にしていたはずだ。こんなピカピカな奴じゃない。錆びた刃があるかどうかも分からない奴だ。こちらを振り向かない、いや馬鹿にした女とその両親を切り落として、家に火をつけてやった。


 あれからどれだけの時が過ぎたかもう数えていないが、自分がやっていることはその時から大して変わっていない。暴力の誇示、襲撃だ。


「散開しろ。狙撃に注意だ。もっとも奴らの矢でこちらの鎧を打ち抜けるとは思えないがな」


 そう言うと、マクシムは鞭で村の方への道を指し示した。


「ヒィーーー!」


 どうやら畑を耕しに出てきた数人の村人らしき者から悲鳴が上がった。こちらを見ると鍬やら袋を放り投げて、村の方へと駆け戻っていく。どうやらやっとこちらに気がついたらしい。呑気なものだ。


「さあ、昼前には全部終わらせるぞ」


 そう言うと、馬に軽く鞭を当てて前へと進んだ。兵達が一斉に畑の中へと駆け出していく。だがその速度は上がらない。畑の土が柔らかく、鎧を着た身では足元が取られて駆け寄るという訳にはいかない様だ。真ん中の畦道は大勢が通り抜けるには狭すぎる。


「チッ!」


 マクシムは舌打ちをした。これでは奴らが先に村に戻ってしまう。散り散りに逃げられると後が大変だ。


「弓隊前へ出ろ。奴らを先に行かせるな!」


 マクシムがそう怒鳴りつけた時だった。


「なんだ、なんだ」


「どこから湧いてきた」


 マクシムの背後から声が上がった。背後に回り込んだ奴でもいたのか?マクシムはそう思って馬首を背後に回した。


 だがそこに見えたのは村人ではなかった。川沿いの自然堤防の内側に設置された排水路の方から、水が溢れてマクシム達の足元の方へ静かに流れてくる。そしてそれはどんどんと水かさを増していた。だがたかが水が少々溢れただけの話だ。大した事ではない。


「前へ進め!高台へ移動するんだ」


 マクシムはそう叫ぶと、兵達を前方の村の方へ誘導しようとした。だが前方にある水路からも水が溢れ出ているのが分かった。マクシム達がいるこの畑に囲まれた場所は、背後の自然堤防と前方の村がある高台側に囲まれて、僅かに窪地になっているらしい。


 水はマクシム達の足元を浅い池のような状態に変えていた。だから足元の地面が緩かったのか。マクシムは兵達が足を取られた理由を理解した。


 だがこの程度の水でこちらが溺れることはない。その程度の窪地だ。それに水は静かに溢れてくるだけで、こちらを押し流すような濁流ではなかった。つまりこれは村の奴らの悪あがきにすぎない。


「獲物を落とすなよ。泥水で見えなくなるぞ」


 マクシムは兵達に声をかけた。兵達も慌てふためくと言うよりは、まるで悪ガキの悪戯にあったかのようにゲンナリした顔をしながら、槍を杖代わりに足元を確かめようとしている。ともかくこれより水が増えると、鎧の中が泥だらけになる。


 膝ぐらいまでならいいが、それより上まで来られた日には、泥を拭くのも面倒だが、乾いた後で痒くてしょうがなくなる。やはり面倒以外の何物でもない。


「高台まで急げ!」


 そう兵達に告げると、マクシムは馬の腹を蹴った。一人で先に行くのは危険だが、今のところ潜んでいる奴は見えない。それに狙撃されたとしてもこの鎧なら何の問題もない。弾き返すだけだ。


 だが馬はマクシムの指示に反して動こうとはしない。この程度の水でびびるとはなんて情けないやつだ。そう思いながら今度はもう少し強めに馬の腹を蹴った。馬はそれに不満を漏らすかのように、首を上下に振りながら嘶いて見せる。だがやはり動こうとはしない。


「何をやっているんだ」


 マクシムは馬に向かって毒づいた。


「足が、足が抜けない!」


 馬だけでは無かった。槍を手にした兵達も、口々に自分が動けないことを訴えている。


『膝程度の水に何を言っているんだ!』


 マクシムはそう心の中で兵達に罵声を浴びせたが、兵達はぬかるみに足を取られて、槍を杖に立っているのが精一杯という体たらくだ。マクシムが身を預けていた馬も、体勢を崩して前のめりになる。それを支え切れずにマクシムの体は水の中へと落ちた。


「ちくしょう!」


 マクシムはそう叫ぶと、水から顔を上げて足を地面につこうとした。しかし何かヌルっとしたものに足が触れただけで、足はそのままずぶずぶと下へ沈んでいく。それは全く硬い何かを捉えようとはしない。思わず両腕を前に差し出して体を支えようとしたが、その腕もずぶずぶと泥の中へと沈んでいくだけだ。


『おい、おい、待てよ。こんなところで溺れるなんて馬鹿なことは無いよな!?』


 マクシムは心の中でそう叫んだが、自分の顔の前に泥水が迫っていた。


「隊長、捕まってください!」


 槍を杖代わりに身を支えていた兵士の一人がマクシムに向かって手を伸ばした。別の兵士も手を伸ばしてくる。二人の手に引っ張られて、マクシムはやっと腕を泥の中から出すことができた。だが自分の体は腿の辺りまで泥に埋まっている。


「誰か、誰か手を貸してくれ!」


 周りの兵達も口々に助けを求めて叫んでいる。


「泥から足が抜けねぇ!」


「これは鎧を外さないとダメだ!」


 その声を聞いた兵士達が一斉に鎧を外そうとした。だが泥に深く嵌まり込んでいる身としては、それすらもままならないでいる。


「外すんじゃない。外したら狙撃されるぞ!」


 マクシムは兵達に声を掛けた。


「ですが、このままじゃ抜けられません」


 お互いに手をとって、槍を杖に一歩ずつ前へ進むんだ!」


 マクシムが必死に指示を出していると、隣にいた兵士が何かを指差した。


「奴らだ!」


 マクシムが兵を指差した方を見ると、簡素な木の盾の様なものに身を隠した者達がこちらに近づいているのが見えた。身動きが取れないこちらを狙撃するつもりか?


「弓を構えろ!奴らを近づけさせるな!」


 奴らの狩猟用の弓なんてものは脅しにすらならない。射程もこちらの弩弓の方が遥かにある。


「ヒュン!」


 弓弦のなる音が響いて、近づいてくる者達に弩が放たれた。放たれた矢が近づいてくる者達が持つ木の盾に深々と突き刺さる。だがそれは固い樫の木で作られているのか、刺さっても打ち抜くことはできなかった。またその向こうに居る者達は、その陰に完全に身を隠していて、狙撃することもできない。


 木の盾の列は注意深くこちらに近づくと、用水路の外れに陣取った。その背後で何やら動く音がする。見ると盾の下から何かの液体をこちらに向かって流し始めるのが見えた。


『なんだ?』


 だが、それが日の光を七色に映しながらこちらに近づいてくるのを見て、マクシムはそれが何かを理解した。そして鼻腔に漂ってくる匂いもそれを肯定している。油だ。


「10数える。それまでの間に全ての剣、小刀、槍、弓を手が届かないところに放り投げろ。一人でも投げなかったら……」


「バシャン、バシャン!」


 マクシムの周りで派手な水音が次々と響く。それは兵達が我先に自分達の獲物を遠くへと放り込む音だった。そしてマクシムは自分が大きな勘違いをしていたことにも気がついた。これは襲撃なんかでは無い。戦だったのだ。

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