思い
雑木で切った枝で囲んだ避難所は狭かった。セレナの隣ではクラリーサが緊張した表情で、一緒に雑木で偽装した囲いの隙間から外を覗いている。
川の上流にある林の端にある避難所からは、畑の向こうにある村の家々がよく見えた。そこからは人々が昼の支度をしているかのように、各家の煙突から白い煙が上がっている。それは春らしい薄曇りの空へ向けて、何事もないかのようにゆっくりとたなびいていき、やがて空の何処かへと消えていく。
セレナはその反対側にある低地側の道をじっと見つめた。それは川沿いをずっと進み、その途中から村の方へ折れると、セレナ達が整備しようとしていた用水路沿いの耕地を抜けて、段々と高くなる村の中心へと続いている。
ちょっと前までは土と枯れ草だけの茶一色だった道は、今ではチラホラと緑が目につくようになっていた。その道の先、遠くに見える林の先に、うっすらと茶色い土煙が上がったのが見えた。まだ風は冷たいと言うのに、セレナは自分の手のひらにじっとりと汗が滲み出てきたのを感じた。
「奴らが来たわ」
セレナの言葉にクラリーサが小さく頷いて見せる。
「アーベル達は大丈夫かな?」
セレナの耳にクラリーサが小さく呟くのが聞こえた。
「クラリーサ、絶対に大丈夫よ。心配なんていらない。だって、これはアルヴィンさんの考えた作戦なんだから」
セレナはそう言うと、覗き窓のところにあったクラリーサの手にそっと自分の手を重ねた。重ねたセレナの手にクラリーサの手が小刻みに震えているのが伝わる。セレナにはそれがクラリーサの震えだけなのか、それとも自分の手も震えているのかよく分からなかった。
「セレナ、こんな時だけど、あなたに言っておきたいことがあるの。いや、今だからこそ言っておきたいの」
そう言うと、クラリーサがセレナの方を振り向いた。その目はいつものおっとりとした優しそうな目とは違って、真剣そのものに見える。
「どうしたのリサ、改まって何?」
「私はアーベルの事が好き。ずっと好きだった」
クラリーサの言葉に、セレナは驚いてその顔をじっと見た。セレナの視線にクラリーサは顔を一瞬伏せそうになったが、意を決したらしく、再び口を開いた。
「もちろんアーベルがあなたのことを好きなのは分かっている。だけどやっぱり好きだという気持ちは止められないの。セレナと一緒になることが彼の一番の幸せだとも分かっているけど……」
セレナはクラリーサの小柄な体をぎゅっと抱きしめた。今日はセレナもクラリーサもいつものお揃いの赤い羊毛のコートではない。目立ちすぎると言うことで、上着の上に誰かの作業着の革の外套を借りて着ている。
それでも抱きしめたクラリーサからは彼女の甘い体臭がセレナの鼻腔を満たした。それは母親を知らないセレナにとって、何よりも安心できる匂いだった。
「リサ、私たちは本当の姉妹以上よ。もちろん知っているわよ。ずっと、ずっと前から分かっていたわ」
「セレナ。だって……」
「リサ、私がアーベルと一緒になったら、朝から晩まで毎日喧嘩ばっかりよ。きっと村中がその声でいつもうるさくなっちゃう」
「確かにそうね」
セレナの言葉にクラリーサがクスリと笑ってみせた。
「それに、私とアーベルじゃ危なっかすぎてダメよ。アーベルみたいな人にはリサ、あなたみたいな人が絶対に必要なの。今でも、これからもずっとね。アーベルもそれは分かっているはずよ」
「え、そうかな。アーベルはそう思ってくれているかな?」
「そうよ。態度に出てなくても、心のそこでは分かっているはずよ」
「でもそれって……」
「何を今更イジイジと言っているのよ。そうよリサ、これが終わったら、アーベルを呼び出して気絶させよう」
「えっ、セレナ。何を言っているの?」
「既成事実よ。気がついたら二人で居るの」
「ええ!」
「そうすればアーベルももはや嫌とは言えないはずよ。それに貴方の思いにも、自分の思いにも気がつくはず」
「そんなのって……」
「何を言っているのリサ、男が女を選ぶんじゃない。私達女が男を選ぶのよ」
「でもセレナ、あなたはどうするの?」
「えっ、私?」
「リサ、私だって女よ。自分が赤ちゃんを産みたいと思う相手ぐらい自分で見つけられるわよ」
そこでセレナはクラリーサの耳元に口を寄せた。
「それにね、私はその相手を見つけたような気がするの」
「えっ!」
セレナが小さく耳元で告げた言葉に、クラリーサが驚きの声をあげた。
「セレナ、まさかとは思うけど、アルヴィンさんじゃないわよね」
「リサ、声が大きい」
セレナはクラリーサの袖を引いて注意を促すと、辺りをキョロキョロと見回した。
「セレナ、本気なの?私もアルヴィンさんは立派な人だとは思うけど、私達とは年が違い過ぎるし、どこの誰かもまだよく分かっていない。それにここにずっと居てくれる人ではないのは確かよ」
「そうね。リサの言う通りよ。少し前の私なら躊躇したかもしれない。その前に諦めていたと思う。だけど色々あって私自身が変わったんだと思う。それが成長なのかどうかはわからないけどね」
「そうねセレナ、私達はアルヴィンさんにあって間違いなく成長したと思う」
「うん。それにリサ、アイリさんが妊娠した時に村のみんなが大騒ぎしても、アイリさんは誰の子供か言わなかった。私もどうしてアイリさんがそこまでして子供を作ったのか、その時は分からなかった」
セレナはそこで言葉を区切ると、クラリーサの両手をとって、それを力強く握った。
「でも今ならアイリさんの気持ちが分かるような気がするの。アイリさんは、それでもその人の赤ちゃんが欲しかったんだって」
そう言うと、セレナはクラリーサに微笑んで見せた。だがクラリーサはセレナに向かって、少し怪訝そうな表情をしてみせた。
「もしかしてセレナは知らなかったの?」
「何が?」
「アイリ姉さんのお腹の子供の父親よ」
「リサ、もしかしてあなたは誰か知っているの!?」
「姉さんの子供の父親はマリウスよ」
「マリウス!?」
「ちょっと待って、それって……。マ、マリウス、マリウスは何処!?隠れていないで出てきなさい!」
「セレナ、落ち着いて。マリウスはアーベルと一緒に川の方よ。それにそんなに大声を上げたら向こうに気づかれる!」
クラリーサの声にセレナは慌てて口を塞ぐと、隙間から外を覗いた。さっきは遠くに見えた砂塵は、既に村の入り口近くまで迫って来ていた。
* * *
「マリウス」
川沿いの道をこちらに向かってくる砂煙を見ながら、アーベルはマリウスに声をかけた。二人とも向こうから見えないように、顔に土やら草の汁やらを塗っていて、傍から見れば、まるで地面から顔を出したモグラのようにしか見えない。
「うん」
「お前、アイリさんの事はどうするつもりだ」
「うん」
「うんじゃない。どうするんだと聞いているんだ」
「うん。俺は子供ができてすぐに一緒になるつもりだったんだけど、アイリさんがセレナのことが何とかなってからだと言っている」
「アイリさんにとっては、セレナは妹みたいなもんだからな」
「うん。アイリさんが言うには友達としての義理をまず果たせと言う事らしい。それもできない男とは一緒になってはくれないそうだ」
「そうだな。セレナの事だ。きっと知ったら気を使うな」
「うん」
「ならば、さっさとこれを終わらせよう。そうすれば晴れて夫婦だ。セレナになんて言うか考えておけよ。絶対に水臭いと言って大騒ぎするぞ」
「うん」
「お前は相変わらず『うん』しか言わない男だな。アイリさんもお前のどこに惚れたのやら」
「うん。俺もそう思う。クラリーサもそうだから、姉妹でそうなんだろうな」
「クラリーサ?何の話だ」
「いや、何でもない。それよりアルヴィンさんの合図を見落とさないようにしないと」
「そうだな。だが本当にあんな奴を信用しても大丈夫なのか?」
「俺は信じるよ。何せ親友のお前を二度も救ってくれたんだ」
そう言うと、マリウスは木立で偽装した監視所で、じっと立ちすくむアルヴィンの姿を見つめた。
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