訪問者
セレナ達がアルヴィンと一緒に農作業を始めてから、既に数日が過ぎている。今日は朝から皆で水路の整備だ。村の外れにある川沿いは手入れを怠っていた為、先日の嵐で、完全なぬかるみに変ってしまっている。
ともかく流れてきたゴミを取り払い枯草を切り取って、水路をきれいにしないと、このまま沼地に変わってしまうこと間違いなしだ。
「アーベル、排水路の確保は出来た?」
「ああ、やっと流れ始めた」
アーベルの返事にセレナは満足そうに頷くと、手の甲で額の汗を拭った。切り取って足元にたまった枯れ草を手にした麻縄で束ねる。その一つを小脇に抱えると、前に立つ背の高い男性に声を掛けた。
「マリウス、この枯草の束も持っていって。風が収まったらまとめて燃やすから」
「了解」
マリウスはそう返事を返すと、水を吸って重くなっている枯れ草の束をひょいと肩へ担ぎ上げた。
セレナの幼馴染の一人、マリウスは背が高く、がっしりとした体躯の持ち主だ。焦げ茶色の髪を短く刈り込んだ姿は、どこかの剣士さながらに見える。
でもその風貌と違って、とてもおっとりとした性格の持ち主だった。なので同じ様におっとりとした性格のクラリーサと二人で居ると、会話から食事まで全てがのんびりになってしまう。
そんな二人を見ていると、セレナはいつも「ぼっとしていないで……」と声を掛けてしまうが、二人から言わせれば、セレナとアーベルがせっかち過ぎらしい。
「セレナ、お弁当よ!」
横合いから女性らしい物柔らかな声が聞こえてきた。お弁当の固焼きのパンと飲み物を持ったクラリーサが、セレナの方を見ながらにっこりとほほ笑んでいる。
「足は大丈夫なの? お弁当なら男どもに取りに行かせたのに!」
「歩くぐらいなら大丈夫よ。走るとまだちょっと痛いかな? 手伝えなくてごめんね」
「無理しちゃだめよ」
セレナの言葉に、幼馴染であり一番の親友でもあるクラリーサが小さく頷いて見せた。本人はこの作業が手伝えない事をすごく残念がっている。
だいぶ良くはなってはいたが、嵐の時に岩場でくじいた足は、まだこの泥の中に入れるほどには回復していない。
「足元に気をつけてね」
泥の中で枯れ草の束を手に立ち上がったセレナに、クラリーサが声を掛けてきた。
「リサ、大丈夫よ。私は見かけよりは軽いんだから」
そう片手を振って答えると、セレナは枯れ草の束を持ったまま、曲げ続けて固くなった腰に手を当てて思いっきり背伸びをした。背中まで反らした頭の向こう、上下逆さまの景色の中で、村人たちが鍬をもって作業しているのが見える。
鍬を持ち始めたセレナ達を見て、耕作放棄を提案したドメニコを始め、何人かの大人達がそれをやめさせようとした。だがあらゆる説得を無視し、黙々と作業を続けるセレナ達を止められずにいる。
それを見た何人かの村人達が、セレナ達に続いて農作業へと戻っていた。
アルヴィンの事は、ミスラルがうまく説明して回ってくれたらしく、セレナ達と農作業を続けるこの異邦人に対して、村から追い出そうなどと言う話は出ていない。今のところただ遠巻きに眺めている。
村人が農作業に戻った姿を満足そうに眺めると、セレナはマリウスの方へ向かう為に、泥の中へ一歩足を踏み出した。だがセレナの予想より泥ははるかに深く、足が膝上辺りまで一気にのめり込む。そしてさらなる深みへと沈んで行こうとした。
「マ、マリウス、手を!」
セレナの声に、マリウスは慌てて枯れ草の束を投げ出すと、セレナの方へ手を伸ばした。セレナもその手に向けて、必死に腕を伸ばす。
だがマリウスの手は自分の手のはるか先だ。目の前に迫った真っ黒な水たまりを見ながら、セレナは自分の迂闊さを呪った。次の瞬間、セレナの体は枯草の束を抱えたまま、泥の中へ思いっきり倒れ込む。
「何をやっているんだ!」「セレナ!」
アーベルの怒鳴り声に、クラリーサが自分を呼ぶ声も聞こえた。頭のてっぺんから爪の先まで真っ黒だ。自分のあまりに間抜けな姿にセレナは耳の後ろが熱くなった。
「だ、大丈夫……」
セレナは泥の中から辛うじて顔を上げると、こちらを心配そうに見るクラリーサに答えた。ともかく上体を起こそうと腕をつくが、その腕までも泥の中へと沈んで行こうとする。どんなに力を込めても、腕は泥から抜けようとしない。
「えっ!」
セレナの口から当惑の声が上がった。腕だけではない。下半身までもが、そのまま泥の中へと沈み込もうとしている。セレナは焦った。闇雲に手足を動かしたが、もがけばもがくほど体が泥の中へと沈んでいく。
「縄を!」
クラリーサの叫び声が聞こえる。
「気を付けなさい」
背後から不意に低い声が響いた。誰だろう。そう思った瞬間だ。セレナの体はあっさりと泥の中から引きずり出されると、飼い猫のように襟首を掴まれた状態で宙に浮かんでいた。
「泥の比重は水より遥かに重く粘性も高い。水と違って、一度沈んだらもう浮かんでは来れない」
セレナが背後を振り返ると、アルヴィンの漆黒の瞳が自分を見つめている。そしてその状態のまま、体がゆっくりとあぜ道に下ろされた。
いくら女の身とはいえ小さな子供ではない。それにあの嵐の日も、両肩にアーベルとクラリーサの二人を抱えて、一人で崖を登ってきた。一見細身に見えるその体の何処に、どれだけの力を秘めているのだろう?
『なんて人なの!?』
セレナは心の中で感嘆した。それはセレナがアルヴィンに初めて会って以来、何度も感じてきた事だ。
アルヴィンはマリウスの方を振り返ると、セレナがマリウスに渡した倍以上の枯れ草を、あぜ道の横へと積み上げていく。
「セレナ、大丈夫!?」
クラリーサがハンカチを出してセレナの顔をぬぐった。真っ白だったハンカチがたちまち泥で真っ黒になる。
「リサ、そんなきれいなハンカチを使ったらだめじゃない」
セレナの言葉に、クラリーサは首を横に振った。その眼はうるみ、今にも涙がこぼれ落ちそうに見える。
「だからここは俺達にまかせろと言ったんだ!」
クラリーサの後ろから、アーベルがセレナに怒鳴りつけてきた。必死にここまで駆けて来たのだろう。アーベルの上着も跳ねた泥でまだら模様だ。
「あんた達にまかせていたら、いつ終わるか分からないじゃない!」
泥だらけの恥ずかしさもあって、セレナはアーベルに怒鳴り返した。どういう訳か、昔からアーベルに何か言われるとすぐにカチンときてしまう。
「そんなことはない!」
「だいたいね、刈る順番も手際も悪すぎるのよ!」
「アーベルもセレナもいい加減にした方がいいよ。アルヴィンさんが呆れている」
いつもの如く、マリウスがアーベルとセレナの間に割って入った。
「アルヴィンさん、本当は二人は仲良しなんです。気にしないでください」
二人をはらはらした表情で見ていたクラリーサも、そう告げると、無言のアルヴィンに肩をすくめて見せた。
「違います!」「仲良しなんかじゃない!」
アルヴィンは無言で二人を眺めていたが、最後は軽くため息をつくとおもむろに口を開いた。
「私としては、どちらでもいいが……」
アルヴィンはそこで一度言葉を切ると、水路沿いに続く村の外へ出る街道へと視線を向けた。そして僅かに目を細めて見せる。
「誰かの知り合いかね? 向こうから馬車がこちらに向かって来ているようだが……」
アルヴィンの言葉に、セレナも慌てて街道の方へと視線を向けた。砂塵を上げつつ黒い小さな点がこちらへ走って来るのが見える。
「
アーベルが叫んだ。
「どこかに隠れないと!」
クラリーサもうろたえた声を上げた。だがどこに隠れるというのだろうか?
セレナは辺りを見回した。水路と泥に挟まれたこの場所に逃げ場などない。それにクラリーサの足では走るのは無理だ。
「大丈夫。私に任せて」
セレナは怯えるクラリーサにそう声を掛けると、服についた泥を払って立ち上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます