愚痴

 春のを訪れを告げる強風の中、アーベルは村外れの丘にある大きな桜の木を見上げた。


 その枝にまだ花は咲いてないが、多くの蕾を纏ったそれは濃い赤紫に煙って見える。そしてその横にある大きな岩の上に座る、背の高い男を見つめた。


 その姿は少し細身にも見えるが、引き締まった均整の取れた体つきをしている。黒い薄手の外套に黒い上着を風になびかせて、遠くを見つめるその姿は、一幅の肖像画の様にすら見えた。


『都から来たのだろうか?』


 男を見ながら、アーベルはそんなことを考えた。軽くカールした漆黒の黒髪。それに男にしては妙に白い肌。この村では一番色白なクラリーサの肌よりも白く、いや、青白くさえ見える。


「何か用事か?」


 男はアーベルの方を振り向くと、そう声を掛けてきた。とても落ち着いた声だ。見かけよりも実はもっと年上なのかもしれない。そんなことを考えながら、アーベルは男に向かって口を開いた。


「勝手に抜け出るなよ。母ちゃんとセレナが心配して、大騒ぎになっているんだぞ」


「それは思慮不足だったな。大変申し訳なかった。こちらの身をそれほど心配してくれるとは、思わなかったのだ」


「おかげで色々と忙しいのに、あんたを探してこいと怒鳴られたんだ」


 アーベルが男に向かって答えると、男は興味深そうな顔をしてアーベルの顔を見つめた。


『母ちゃん達が大騒ぎするのがよく分かるな……』


 アーベルは心の中で呟いた。そのあまりに整った顔に見つめられると、男のアーベルですら何やら気恥ずかしい思いがする。


「それから……」


 そう告げたアーベルの言葉がそこで途切れた。なぜだかよく分からないが、この男の前だと素直な態度がとれない。でも母ちゃんからきつく言われたから、言わない訳にもいかない。


「それから何だ?」


 アーベルは意を決して、男に向かって頭を下げた。


「助けてくれてありがとう」


「君は昨日の子供か?」


「そうだ。あんたに助けてもらったうちの一人だ」


「君はあの宿屋の女主人の息子か?」


「そうだけど?」


「ならば私に恩を感じる必要はない。私も君の母親に助けられた」


「そうもいかない。助けてもらったのは俺だ」


「合理的だな」


 男はそう言うと、口元に笑みらしきものを浮かべて見せた。


「それよりも、ここは食料が足りないのだろう。君の爪を見る限りどうやらそれは本当らしい」


 男の言葉に、アーベルは慌てて自分の手をポケットに隠した。


「だが不合理だな……」


「不合理って、なんなんだ!?」


 男の言葉にアーベルは当惑した。男は丘の下に広がる耕地を指差すと、言葉を続ける。


「辻褄が合っていないのだよ。見れば耕地はある。手狭ではあるが、耕作に全く不向きな土地でもない。それなのにここしばらくは手入れをしていない様だ。それでいてここは食糧不足だという」


「あんたは何も分かっていない!」


 アーベルは思わず声を張り上げた。このよそ者は、ここがどういう状況なのか全く分かっていないのだ。


「俺達は先祖代々受け継いできたこの地を奪われ、追い出されようとしているんだ。それなのに、真面目に土地を耕すなんて事が出来ると思うのか?」


「追い出す? なぜだ?」


「俺達が奴の言う事を聞かないからさ」


 アーベルは男に向かって、フンと鼻を鳴らして見せる。よそ者というだけでなく、アーベルはこの男がともかく気に入らなかった。理由は特にない。強いて言えば、この男の完璧さが鼻につくとしか言えなかった。


「俺は知らないが、昔は平和でとてもいい場所だったって、死んだばあさまは言っていたよ。だけど戦争が全てをぶち壊しやがったんだ」


「戦争? 先の大戦の事か?」


「そうだ。魔族との戦争だ。セレナは、あの子は本当だったらこの地の領主になるべき子なんだ。だけどセレナのじいさん、元のここの領主が勇者の血筋だとかいう理由で、戦争に駆り出されて魔王に殺された」


「勇者?」


「ああ、ばあさまの話ではとっても立派な、尊敬できる領主様だったそうだよ。だけど古の勇者の末裔だなんておだてられて、のこのこと戦争なんかに行って殺された」


「そうか、それは残念だったな。だが従軍は領主としての義務ではないのか?」


「さあね。俺は政治なんかさっぱりさ。母ちゃんが言うには宮廷内はもちろん庶民にも人気があったから、国王が嫉妬して殺したんだと言っていた。だけど昔の事さ。本当かどうかは分からない」


「なるほど。おそらくそれが真実なのだろうな……」


 男はそう呟くと、納得したように頷いて見せた。


「でもそれのどこが、尊敬できる領主様なんだ? 俺から言わせれば単なる馬鹿だ。おかげで残された俺たちや、セレナがどんだけ酷い目に合っていることか――」


 そう叫んだアーベルの目から涙がこぼれ落ちそうになった。だがこの男の前で涙なんて流したくはない。アーベルは上を向いて必死に耐えた。


「この土地は本当はセレナのものなんだ。だけど戦争に負けた責任を取らされ、国の預かりになっている。おかげで今では、派遣された領主代理のやりたい放題だ。どれだけ耕したって、どれだけ頑張ったって、奴に全部持っていかれてしまうだけなんだ!」


 アーベルはこの余所者に、自分の怒りをぶつけているだけなのは分かっていた。だがそれを止めることなど出来ない。


「それだけじゃない! 奴はセレナも狙っている。セレナと形だけでも結婚すれば、合法的にこの地を手に入れられる。そうすれば国の中央に付け届けをする額が減るか、いらなくなるからな」


「そもそも領主間の婚姻とはそう言うものではないのか? それが領主の娘として生まれた者の定めだろう」


 男の冷静な台詞に、アーベルの怒りがさらに激しさを増した。


「何が定めだ! 第四夫人か第五夫人だぞ。ほとんど娼婦扱いだ。セレナの両親が死んだのだって奴は事故だとか言っていたが、全部嘘っぱちだ。あれもこれも、全ては奴の陰謀なんだ!」


「陰謀とは?」


 男が首を傾げてみせる。


「奴は手に入れた土地の住人達をもっとひどいところに移して、元の土地は自分の息がかかった者に与えて来たんだ。他の村で奴の甘言に騙されてきた所は全てそうだった。だが俺達は騙されない!」


「もともといる者を別の場所に移して、別のところからわざわざ耕作者を連れてくるというのは、全くもって不合理だな」


 そう告げると男は川の向こう、湿原の先に見える荒野を指さした。


「その様な余剰人員が居るのであれば、その者達こそ開拓者として採用すべきだろう。それにこのような場合の為に国の方で、住民と領主との間の調停機関か、法務機関を用意しているのではないのかね?」


「全て門前払いさ。俺達だって最初は役所へ使者を送ってたんだ。だけど奴の賄賂のせいで誰も取り扱ってくれない。それどころか、こちらに金を要求する始末だ」


「完全な機能不全だな。仕組みはあってもそれを運用する体制、いや、運用する意識そのものに欠けている。責任を明確にするなど改善の必要があるな」


「この地を耕さないのだって、俺達の奴へのせめてもの抵抗なんだ」


 アーベルはそう告げると、疲れたように地面に座りこんだ。自分はこの男に何を言いたかったのだろう。自分が語ったことは全て、この男にとってはどうでもいい話、単なる愚痴だ。


「やはり不合理だな」


 男が再びその言葉を口にした。


「状況の全てを理解している訳ではないが――」


 そうだろう。あんたにとっては人ごとだ。アーベルは男の目をじっと睨みかえした。


「食料の確保はもっとも大事な問題だ。一番重要かつ、緊急度の高い問題をほったらかしにするのは極めて不合理だよ。どんな状況であろうが目の前の耕地を耕し、食料を確保するのを放棄する理由などない」


 男はアーベルにそう告げると、ひらりと岩の上から飛び降りてアーベルの前へと立った。


「あんたは人ごとだから……」


「それに搾取を理由に耕作を破棄するのは、問題解決の方法としては全く意味がない」


 男はアーベルの言葉を無視すると、傍らの壊れた荷車に立てかけてあった鍬を肩に担いだ。こうして男を前にしてみると、男の背が高いのがよく分かる。決して低くはないアーベルの背よりも、頭一つ以上は確実に高い。


「あんた、一体何を?」


「今年は冬の終わりの嵐も、例年よりかなり早かった。普通に考えれば春先の長雨も早く来るだろう。ならば今のうちに、土を掘り起こしておくべきではないのかな?」


「そ、それはそうだけど」


「何か交渉なり、抵抗なりをするのであれば、食料を確保してからにするべきだ。それに農作業と言うのは時期を外しては取り返しがつかない」


 そう言うと、男が枯草が目立つ耕地へと降りて行く。アーベルはその後姿を、あっけにとられた思いで見つめた。


「アーベル!」


 背後から自分を呼ぶ声が響いた。アーベルが振り返ると、セレナが息を切らせて、こちらに走ってくる。


「アーベル、アルヴィンさんは見つかった?」


 セレナはアーベルのところまで走ってくるなり、そう早口で問いかけた。そして無言のアーベルにムッとした顔をする。


「こんなところで何の油を売っているのよ。ちゃんと探してって言ったでしょう!」


 相変わらずせっかちだなと思いながら、アーベルは桜の木の先を指さした。そこでは黒ずくめの男性が鍬を手に、それを地面へと振り下ろしている。


「えっ!」


 それを見たセレナが小さく声を漏らした。


「よそ者のくせに、勝手な男だ」


 そう呟いたアーベルに対して、セレナがさらにムッとした顔をする。


「無駄口を叩いてないで、納屋から鍬を取ってくるわよ!」


「おい、セレナ。みんなで耕すのを止めてしまおうという話をしたじゃないか。勝手に耕すわけには――」


 セレナがアーベルに首を横に振って見せた。


「アーベル、ずっとおかしいと思っていたの。ドメニコさんは、それしか抵抗の方法はないと言っていたけど、いくら納得がいかないからって、自分達の土地を耕すのを放棄するなんてのは絶対におかしいよ!」


 アーベルはセレナの目を見て説得をあきらめた。この目をした時のセレナには、何を言っても無駄だ。アーベルは肩をすくめると、既に納屋に向かって走るセレナの後姿を追いかけた。

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