目覚め
雀の
アルトマンは自分の手足が問題なく動くことを確認すると、慎重にまぶたを開いた。部屋には窓もあるらしく、そこから差し込んだ淡い光が部屋の中を照らしている。それに誰かの寝息のような音も聞こえてきた。
どうやら視覚並びに聴覚にも特に問題はないらしい。視線を横へずらすと、自分の上着類が壁際に干されており、その下で栗毛の少女が椅子に座ったまま転寝をしている。
彼女の頭がぐらりと動くたびに、胸元まで下ろされている髪が馬の尻尾のように揺れるのが見えた。少なくともこちらを監視している訳ではない。
アルトマンはそう結論付けると、寝台の上へと体を起こそうとした。
ギ、ギ、ギィ――――
だがその動きに、使い古された寝台の木枠が盛大な軋み音を上げる。
「あ!」
その音に壁際から小さな声が上がった。そして今度は壁に何かがぶつかる鈍い音も響く。
「いたた……」
そこでは盛大に船をこいでいた少女が、後頭部に手を当てつつうめき声を上げていた。だがすぐにアルトマンへ視線を向けると、
「まだ休んでいてください!」
と声を張り上げた。
「痛みもないし、動作に支障がある個所もない。体自体には何も問題はないようだ」
「でも長い時間雨に濡れていたんです。かなり体力を消耗しています!」
少女はアルトマンの言葉を無視してそう決めつけると、上体を起こしかけたアルトマンの体を、寝台の上へと押し戻そうとする。
「不合理だな。そのような兆候は何もない」
「不合理? よく分かりませんが、今は体を休めるのが一番です!」
少女は大きな声で答えると、何が不満なのか、アルトマンに小さく頬を膨らませて見せた。
実に不合理な提案をする少女の顔を見ながら、アルトマンは心の中で首をひねった。この表情をどこかで見た様な気がするのだが、それがいつどこで見たのかは思い出せない。
だが不合理なことを受け入れる理由は何もない。アルトマンは少女に向かって首を横に振って見せると、そのまま寝台から体を起こそうとした。
グーー
その時だった。寝台のきしみ音とは違う、もっと低い音が辺りに響いた。その音に少女は少し恥ずかしそうな顔をすると、自分のお腹に手を当てた。だがすぐに「あれ?」という表情をして見せる。そして今度はアルトマンの顔をじっと見つめた。
「どうやら動けなくなったのは低体温もあるが、空腹も原因だったらしいな」
アルトマンの言葉に、少女が笑みを浮かべて見せた。まるでヒマワリが咲いたみたいな笑みだ。
「横になって待っていてください。すぐに何か食べ物を持ってきます」
そう告げた少女が春の空を舞う燕の如く身を翻して、部屋の外へと出て行く。
タン、タン、タン、タン
アルトマンの耳に、少女が階段を駆け下りていく足音が響いた。その音を聞きながらアルトマンはいくつかの懸念事項の一つ、意思疎通に問題が無いことに満足する。
先の大戦の際に捕虜を通じて、人間の庶民階級の言葉を学んだことが役に立ったようだ。それに名詞に限って言えば外見的な特徴と同様に、それほどこちらと差がある訳でもない。
「やはり資料を頼るのと己の知見によるのでは、理解の深さに大きな差があるな」
アルトマンはそう独り言をもらすと、興味深そうに自分の腹部へと手をかざした。飢えを経験するのはこれが初めての事だ。もちろん空腹とそれによる肉体的な能力の低下に関する知識はある。
故にその様な状況が発生しないよう、正確な時間毎に正確な量の食事を心がけてきたのだ。だがそれが肉体に与える制限の大きさは予想以上だ。
「食料問題が争いの根本的な原因になるはずだな。合理的だ」
アルトマンは再び独り言を呟くと、様々な知識が己が知見に基づき、
「……おばさん……うん。目を覚ましたみたい。どうやらお腹が減っているみたいなの……」
「……もちろんさ……思って……準備しておいたよ」
アルトマンの耳に階下で二人の女性が話をする声が聞こえてきた。一人は先ほどの栗毛の髪の少女で、もう一人はもう少し
アルトマンは自分の聴力に集中すると、階下での会話に耳を澄ました。
「……でもこれ、おばさんが大事にとっておいた食料じゃないの?」
「一応これでもここは宿屋だからね。客が来た時の為に取っておいたものだよ。それにそんなことはあんたが気にすることじゃない」
「でも――」
「セレナ、あの人はうちのバカ息子も含めて、あんた達の命の恩人だよ。たとえそれが最後のパンだって喜んで出すさ。それにこのミスラルおばさんを舐めるんじゃないよ。いざという時のためのものは、ちゃんと別に取ってあるんだ」
「おばさん、ありがとう!」
「セレナはそこの水差しとコップを持っておくれ。食事の方はお礼もあるから私が持って上がるよ」
「はい!」
ほどなくして、先程の少女が水差しとコップを手に部屋の扉を開けた。茶色の髪に少し白髪も混じった恰幅のいい女性が、少女の背後から盆を持って入ってくる。
「お待たせしました!」
「大したものはありませんけど、どうか召し上がってください」
水差しを手にした少女が言葉を発したのに続いて、中年の女性がアルトマンに声を掛けた。そして寝台の横の小さなテーブルの上に盆を置く。
「ご挨拶が遅れてすみません。私はこの宿屋をやっていますミスラルと申します。昨日はうちの息子を助けていただきまして、本当にありがとうございました」
そう告げると、アルトマンに向かって丁寧に頭を下げた。そして隣に立つ少女の方をちらりと見る。
「セレナ、もう挨拶は済んだのかい?」
「あ、そうだ。忘れてた。私はセレナと言います。昨日は助けて頂きまして、本当にありがとうございました」
慌てて挨拶をすると、少女もアルトマンに向かって頭を下げた。
『せわしない子供だ』
その動きに、アルトマンは宮殿の庭先に来る小鳥達の姿を思い浮かべた。
「あの、よかったら、お名前を教えてもらってもいいでしょうか?」
「これは失礼しました。私はアルヴィンと申します」
アルトマンは既に決めていた偽名を二人に告げた。
「アルヴィン!」
だがその名前を聞いた少女の口から驚きの声が上がった。
「これは驚いたね。まさか同じ名前とは――」
ミスラルと名乗った中年の女性も、そう言葉を発すると、驚いた顔をして見せる。
「この名前が何か?」
アルトマンは少し警戒しながら、ミスラルに問いただした。
「いえ、この村の以前の領主様と同じ名前なので、少し驚いただけです」
「領主?」
「ええ、それはそれは立派な方だったんですけどね」
「おばさん!」
ミスラルは続けてアルトマンに何かを話そうとしたが、セレナがそれを押し留めた。その顔には僅かに憂いの様なものも浮かんでいる。
「そうだね。この話はこちらの方には関係のない話だったね。でも奇遇だね」
二人の態度に、アルトマンは人間の国に入った後で使うと決めていた偽名について、早計だったかもしれないと、少し後悔した。
有名な人間の名前が一般的である保証はない。それでも耳慣れた名前ではあろうと考えていたのだが、どうも想定とは違ったらしい。だが一度口にしたからには今更変える訳にもいかない。
「ミスラルさん、これは不合理ではないかな?」
話題を変えるべきだと感じたアルトマンは、ミスラルに声を掛けた。そして寝台の横のテーブルをトンと指で叩いて見せる。
「不合理?」
「そうだ。失礼だとは思ったが、お二人の階下での会話を拝聴させていただいた。その会話と冬の崖下で子供達が食べ物の採取を試みていた事を考慮すると、この地では食料が足りないとお見受けする」
アルトマンの言葉に、二人がポカンという顔をする。
「その貴重な食料を私のような部外者に、対価を払えるか不明の者に出すのは、あまり合理的ではないと思うのだが?」
アルトマンの言葉に二人が顔を見合わせた。二人ともまるで何かを耐え忍ぶような顔をしていたが、最初にミスラルが笑い出す。それにつられてセレナも笑い声を上げた。
「ははは、恥ずかしいったらありゃしないですね」
「もう、おばさんが大声を上げるから筒抜けだったじゃない!」
ひとしきり笑い声を上げたミスラルが、アルトマンの方を振り返った。
「アルヴィンさんは息子の命の恩人ですからね。食事ぐらいしか出せませんが、喜んで出させて頂きます」
「恩人? 昨日の男の子のことかな?」
「はい。おっしゃる通りです。体だけは随分と大きくなりましたが、頭の中はまだまだ子供です。今はこの部屋の暖炉の薪を取りに行っていますが、戻ってきたらお礼に上がらせて頂きます」
そう言うと、ミスラルは腰に手を当てて今度はセレナの方を振り返った。
「セレナ、あんたもだよ。誰にも相談しないで、岬に行くなんてのはもうやめにしておくれ」
「はい、ごめんなさい」
セレナが手の平を顔の前で合わせつつ、さも済まなそうにミスラルに向かって頭を下げた。
「ともかく、アルヴィンさんのお陰で、この子達が無事に戻ってこれて何よりでした」
「クラリーサ、あなたに助けてもらったもう一人の女性は、足をくじいたみたいだけど、大したことはないという話だから全員無事です。本当に助かりました」
そう告げたセレナの顔にも安堵の色がある。そしてアルトマンに対する感謝の念にも満ちていた。
「でも放牧地の柵を直しに行っていた人達もいたから助かったんだよ。あの雨の中でずっと外にいたら、どうなっていたことか!」
「本当にごめんなさい。それよりもアルヴィンさんは崖の下から二人を担いで登ってきたけど、どうしてあんなところにいたの? そもそもこの村の中を通らないと、あそこにはいけないと思うのだけど?」
セレナは小首を傾げると、アルトマンに対して不思議そうな顔をして見せた。
「船で近くの港まで行くつもりだったのだが、天候が悪化したのと、浸水で先に進むのが困難になってね。それで崖の下に流れ着いてしまった。ともかく崖を登ろうとした所で、偶然に君達と出会ったのだよ」
「船って、この冬にですか?」
ミスラルは驚いた顔をすると、アルトマンに問いただした。
「何か?」
「冬は海流が渦を巻くので、岬の沖は漁に出るのすら難しいところですよ。それにアルヴィンさんは漁師にはとても見えないですし――」
今度はミスラルが、当惑した顔で首をひねって見せた。
「漁師ではありません。少しばかり遠くから船でこちらの方へ向かっていたのです」
ここで疑いを掛けられるのは非常にまずい。アルトマンは自分の知識から、この状況が説明可能な筋立てを考えようとした。だがセレナは何かを思いついたらしく掌を拳でポンと叩くと、ミスリルの方を振り向いた。
「おばさん。もしかしてアルヴィンさんは、バーデンから逃げて来たんじゃないの!?」
「えっ、まさか。バーデンは先の大戦で魔王軍に占領されて、島の人達は命からがら逃げて来たという話だから、今は誰もいないって聞いているけど?」
「でも島はバーデンの港以外はほとんど深い森って聞いたわ。そこに隠れていたんじゃないかな。それで隙をみて逃げ出してきた。だから冬に渡ってきたんだよ!」
「でも先の大戦と言っても、随分昔の話だから――」
さらに当惑した表情をするミスリルを差し置いて、セレナは寝台の上のアルトマンの方へとにじり寄った。
「ね、アルヴィンさん。アルヴィンさんはバーデンから逃げてきたんでしょう!」
「バーデンというのは、ライオネル島の事かね?」
「ライオネル?」
今度はセレナが当惑した表情をすると、首をひねってみせた。
「セレナ、入植される前のバーデンの古い名前だよ」
どうやら二人はこの岬の遠く沖合にある島、ライオネル島の事を話しているらしかった。そしてここではアルトマン達に占領された地という事になっているらしい。だがアルトマンに言わせれば、その解釈は事実と全く異なっている。
実際は海軍が風除けで島に立ち寄ったところ、本国からの船が途絶えて、困窮していた人間達が島におり、食料を与えるのも面倒なので船を与えて本国に帰らせただけの話だ。
そもそも船が少し途絶えただけで、すぐに困窮するようなところに進出すること自体、不合理極まりない計画だ。だがそう思い込んでいるのなら、色々と説明が省けて都合がいい。
「そうだ。バーデンから逃れてきた」
そう告げたアルトマンの両手を、セレナがそっと握りしめた。
「お帰りなさい」
「お帰り?」
「やっと人の住む世界に帰ってこれたんですもの。ずっと苦労されていたのでしょう?」
そう告げたセレナの目から涙が流れた。アルトマンはこの少女が何故自分に対して涙を流す必要があるのか、合理的な理由が何も思いつけないまま、自分の手を握るセレナの白い手をじっと見つめ続けた。
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