第35話 旅の準備
その後は、何事もなくひと月が過ぎた。
回復した猪之助を送って、三郎も伊予まで同行することになった。
ひと月のあいだ、三郎と小夜は、何度も猪之助と話をした。歳が近いこともあって、昔からの知り合いのように親しくなった。
三郎は、猪之助の語る理想や信念が、まぶしかった。猪之助のほうが年下なのに、世の中のことが、ずっとみえているように思えた。
田舎の小さな藩で、ただ剣の修業だけしていたのでは、駄目なのではないか? 藩の外へ出て、世のために、何かできることがあるのではないか?
猪之助をみていると、そんなことばかり、頭に浮かんでくるのだった。
出立を明日にひかえたその日、三郎は、祖母に呼ばれた。
祖母の部屋に行くと、木箱が開けられ、つめられていた反故紙が、そのまわりに散らばっていた。反故紙は木箱のなかのものを守るために、一緒に入れられていたもののようだ。
木箱には見覚えがある。確か、人形が入っていたはず……。
「よう来た。旅立つまえに、渡したいものがあるのじゃ」
祖母は、箱から出して卓の上に置いていた人形の一体を取りあげた。丁寧に乾いた布で拭き、人形の正面側を三郎にみせる。
「これを、持っていってもらえるか?」
「これを?」
「お守り代わりじゃ」
三郎は、人形を受け取った。家に代々伝わるひな人形の一体。男びな・女びな二体だけの、このひな人形は先祖が仙台にいたころから伝わるもので、女児がいないときでも、毎年飾られている。
「女びなと離してしまっていいのですか?」
三郎が尋ねると、
「かまわん。……この人形たちには、別々のところに置いても、必ず二体そろうように、同じ場所に戻ってくるという伝承がある。――必ず帰ってくるんじゃぞ」
「猪之助殿を送っていくだけです。伊予まで送り届けたら、すぐ戻ってきます」
祖母は年をとって色が少し薄くなった以外は、衰えのみえない黒い眼を見開き、三郎をにらんだ。
「わかっておる。念のためじゃ」
「ありがとうございます」
三郎は、人形をふところにしまうと、あらためて礼をして、祖母の部屋を出た。
藩と藩の国境近くにあるさびれた寺のお堂で、肩に傷を負った行商人は、荒い息を吐きながら、休んでいた。
四人いて、一人の老婆に敗れるとは……。
あの三人が、素性を吐くことはないだろう。が、どこから来た者かは、わかりきっている。表立っては何もなくても、裏で、藩の重役には激しい抗議があるだろう。
だが、脱藩者がいつまでも、この藩内にいるわけではない。やがて、目的地に向けて旅立つにちがいない。
まだ、狙う機会はある。
行商人は仲間と連絡をとり、食料と薬を届けさせた。使いの者は、二度のしくじりは許されぬ、しくじれば戻れぬことも覚悟せよ、との、頭領からの言づてを伝えてきた。
わざわざいわれなくても、わかっている。今までも、ずっとそうだったのだ。しくじった仲間で、そのまま戻ってこず、行方知らずになった者は多い。
自分は、そうはならない。
行商人は、ふところから、古びたお札を取り出した。十四、五年も前に先代の頭領から渡されたものだった。先代の頭領は、今の頭領と違って、人外の術を操ることに長けていた。
古い寺か神社で、この札を使えば、この身は人外の力を得ることができる。
ただし、一度しか使えぬ、心して使え。先代の頭領の言葉が、耳に残っている。
今が、その使いどきだった。
寺の本堂の北東側にまわると、札を廂の下に置き、教えられた呪文をとなえ、眼をつむり一心に祈った。
行商人の身体が、カッと熱くなった。半透明のもやもやとした何かが、はるか上方から降ってきた。眼をつむり、たたずんでいる行商人の身体にかぶさり、吸い込まれるようにして消えた。
行商人は、ゆっくりと眼を開けた。自分の内部の、底の、そのまた奥底に、誰かが、ひっそりとたたずんでいた。
――何者にも負けぬ。その誰かの強い意志が、行商人を奮い立たせた。
――わしは、誰にも負けぬ。強い力が、身の内にみなぎり、心臓が激しく脈打っていた。
行商人は寺を出て、藩の国境を越え、伊予に通じる街道沿いの林に隠れた。
伊予の港まで行くのなら、必ずここを通るはず……。
――ここで仕留める。
行商人は、ひと月でもふた月でも待つ覚悟で、眼を凝らし、街道を通る人々を見張り始めた。
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