第26話 鬼婆の説教
「申し訳ないが、飯田の家から、婚姻の約束は、無かった事にしてくれといってきた」
母方の伯父は、金子をいれた紫の包みを、千代の祖父の前にゆっくりと差し出した。
「……理由はなんじゃ」
祖父は、包みを見つめながら、ぼそっという。
「いわねば、駄目かの?」
伯父は、困った顔で尋ねかえした。
「理由もなく、無かったことにしてくれといわれても納得がいかん」
祖父は、腕を組み、憮然としている。
「まあ、そうじゃの」
伯父は、深いため息をついた。
「飯田の小僧が、親に泣きついてきよったのじゃ。――鬼婆の嫁など貰いたくないといっての」
「なんと、意気地のないオトコじゃ。……千代ほど優しい子はおらぬというのに」
祖父は、憤懣やるかたない様子で、冷えてしまった茶を飲んだ。湯呑をたたきつけるように置いた。
「よかろう。……千代も気のりしてなかったようじゃし」
伯父は、紫の包みを、いっそう前に押し出した。
「先方からの気持ちじゃ」
祖父は、包みをじっと見た。ため息をつくと、包みを懐にいれた。
「千代にいえば、突っ返せ、と言うじゃろうが、あって困るものではないからの」
赤字続きの道場の助けに、ほんの少しだが、なるかもしれない。千代にはいわず、金の要りようなときに、不足分をこっそり出してやればよいだろう。
折れた竹刀や木刀の修繕、道場着を仕入れたりするときに、弟子の誰かに頼めばよい。今までもそうしてきたが、千代は意外に金銭の出入りにうとく、ばれたことはない。
千代の祖父は、伯父を送って、門のすぐ外まで出た。千代が試合に勝ってからは、体調がよく、道場のまわりを少し歩くのが日課になっていた。
やはり、心配事が減ったからだろう。寒い朝や夕方に、必ずといっていいくらい出ていた咳も、今のところおさまっている。
伯父に初孫ができたことなど、のんびりと立ち話をしていると、男女のわめくような声が聞こえた。振り向くと、あばれる二郎の頭と源太の腕を、何が何でも放すものかと、がっしり抱え込んだ千代が戻ってきていた。
千代は、髪を振り乱し、顔を真っ赤にして息を切らし、なんとか逃げようとする二郎と源太を無理やり引きずっている。
門の前にいる伯父を見ると、千代は、ばつが悪そうに、
「もう、用事は終わられたのですか?」
いいながら、申し訳程度に、素早く頭をさげる。
そうしながらも、暴れる二郎と源太を放そうとしない。逆に、より一層力を入れておさえつけている。
祖父は、あきれた顔で声をかけた。
「仲が良いのもいいが、そんな様で出歩いていると、嫁の貰い手がなくなるぞ」
千代の顔が赤くなった。
「よい、よい。……仲の良いご兄弟で何よりじゃ」
伯父は、笑いながら、片手を背中越しに振ると帰っていった。よほどおかしかったのか、肩が震えていた。
源太は、千代があいさつをしている隙に、すっと腕を抜いて逃げてしまった。
残された二郎は、道場のなかに引っぱり込まれ、正座をさせられ、千代から説教を受けている。
……さて、いつ話したらよいかの。
祖父は、婚姻の約束が破棄されたことを、いつ話せばよいか悩みながら、道場にはいった。
千代の、二郎への大声での説教は、延々とつづき、近所にも響きわたっている。
……これでは、ますます鬼婆といわれるのう。
祖父は苦笑いし、威厳のある顔をつくろって、説教を止めるために、おもむろに口を開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます