第25話 村の噂
お助け金を決めた試合の数日後、千代の道場を、藩の重役を担っている母方の伯父が訪ねてきた。千代の婚約をまとめたのもこの伯父で、何かとおせっかいを焼いてくる。
祖父の部屋に案内し、茶を出すと、昼飯後に外に出て戻ってこない二郎を、探しに出た。
放っておくと、陽が沈むまで、村の子供らと遊び惚けてしまう。
そろそろ、道場の後継ぎとしての自覚を持ってもらわないといけない。
遊び場所の見当はついていた。近くにある山沿いの竹林のなかの空き地にちがいない。村の子供らと、よく相撲や鬼ごっこをやっている。
歩いていると、すれ違った村の子らが、こそこそ小声で何かいっている。
千代は、昔から耳が良い。オニババ、オニババと囁いているのが聞こえた。振り返ってにらんでやると、ぎょっとした顔をして逃げてゆく。
あの試合の翌日から、千代のことを、陰で鬼とか鬼婆とかいう輩が増えた。試合中の自分の顔は見られないからわからないが、そんなに怖い表情だったのだろうか?
千代にも乙女としての自負がある。並みの男より背が高く、男っぽいといわれるが、鬼などどいわれれば、傷つく。ましてや、鬼婆などど、山中に棲む人食いのたぐいではないか。
祖父や二郎は、噂を聞いているだろうに、気を使っているのか、そのことが家で話題にのぼることはない。いずれ、このような噂は消えてゆくだろう。けれども、不快なことに変わりはない。
長い生垣の角を曲がると、寺の門の前に、二郎と数人の村の子らが集まって、勢いよくしゃべっている。二郎を中心に、円陣のような形になっており、周囲を見ていない。
驚かせてやろうと、忍び足で近よった。
二郎の興奮した声が、聞こえてきた。
「その時の姉上の顔、本当に鬼婆だった。――笑うと、口が裂けて牙をむき出したように見えて、眼はつりあがって、鬼婆もかくや……という有様だった」
「それで、それで……どうなった?」
村の、確か源太とかいった小僧が二郎に続きをうながす。
千代は、愕然とした。道場のあとの仕返しのことまで、噂になって流れていた。気がつかなかったけれど、誰か村の者が見ていたのだろうと思っていた。
無邪気に村の子らに話をしている二郎……こやつが、鬼、鬼婆などと、おおげさに振れまわっていたのだ。
千代の胸の内に激しい怒りが湧きあがってきた。怒髪天をつく怒りとは、まさに今の千代の怒りだった。
唇が、わなわなと震えた。
「この子は、この子は、ひとの気も知らないで・・・」
千代は、村の子らの輪の中に強引に踏み入った。じたばたする二郎のえり首をつかんで、尻をたたく。渾身の力を込めて、何度もげんこつでたたいた。
「――痛いよ、姉上!、痛い!痛い!」
女とはいえ、道場の師範として鍛えられた腕力で叩かれるのだ。生半可な痛さではなかった。
「――やめろ! 鬼婆!」
源太が、どこから拾ってきたのか、細い木の枝で、二郎をつかんでいた千代の手首をたたいた。
「痛っ!」
千代は、思わず二郎を放した。
うわあっといいながら、二郎が逃げる。千代は鬼の形相で源太にせまり、振り回す木の枝をつかんで折った。うわあっと声を上げて、源太と、そのまわりの子らも逃げる。
「こらっ、待ちなさい!」
果てしなく頭に血が上った千代は、右に左に逃げる二郎や、源太たちを追いかけた。ひとりをつかまえては、頭をはたき、次のひとりをつかまえて、背中をたたく。
おもしろがった村の子らは、鬼婆じゃあ、鬼婆がきたあ、といって逃げ回る。
千代は、まわりに村の大人がいるのもかまわず、無心で追いかけまわした。こんなに、腹がたったことは、今までなかった。
無心に、必死に子らを追いかけた。子らの悲鳴と笑い声が、天まで届いていた。
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