第二部 鬼婆の剣
第16話 道場の危機
「叔父上から、話があった」
めずらしく、布団から起き上がった、病床の祖父が、千代にかすれた声でいった。
「来月、道場の先を決める試合がある」
千代は、縁側につづく障子を閉じながら、眉を寄せた。
先月も、試合の話が出ていた。しかし、まだ寒い時期だし、祖父の容態が良くないので、延期になったはずだった。
「甲田のやつらが、早くしてくれと、訴えて出たらしい」
祖父は、腹に据えかねたように、声をふるわせた。
怒りの感情が病を持つ身体に響いたのか、咳をしはじめ、千代の差しだす湯のみの水を飲もうとして、激しくむせた。
甲田源七郎たちは、藩内でもう一軒の道場を開く、千代たちの道場の仇敵だった。十年ほど前に同じ藩内に一刀流の道場を開き、最近腕の立つ師範代が入ったこともあって、人気があり、年々そちらに通う者が増えていた。それとは反対に、千代たちの道場は、年々弟子を減らしていた。
弟子の取り合いになったとき、道場の高弟たちは、気をつけるようにと祖父にいった。
が、その頃、頑健だった祖父は少しも気にしなかった。
藩で一番に道場を開き、古くからの弟子や、藩で働く者たちの息子などが、大勢、通っていた。よそから来た新参者に負けるなど、思いもしなかったのだ。
千代の道場は、藩ができてすぐ、仙台から移ってきた曽祖父が開いたものだった。
藩家に代々伝わる鐘巻流を、藩の若い武士、町民たちに教えている。
藩が開かれた当時は、藩の外から山を越えて、何度も野盗が襲ってきた。
町民たちは、自衛のために固めの木刀を持ち、それをあやつる術を学びに、ここに通うようになった。
曽祖父は、懇切丁寧に、町民たちに剣術を教えた。そのおかげで、幾度もあった野盗の襲撃を、撃退できたのだという。
曽祖父は、町民たちに慕われて、その頃からの弟子の家族たちが、収穫期には、とれたてのミカンや芋を差し入れてくれる。
千代も、かすかに曽祖父のことを覚えていた。小柄な、道場の主とは思えないくらい、痩せてひょろひょろとした体格の人だったと思う。
曽祖父は千代が三歳のときに、はやり病で亡くなり、ほかに思いだせるのは、ときどき父をしかる厳しい声と、千代の頭をなでる、ごわごわした手のひらの感触だけだった。
「……わたしが、出るよ」
千代は、怒った顔でこたえた。
弟の二郎は、十歳になったばかり。熱心に練習はしているけれど、とうてい、香田の代表者との試合に勝てる体格、技量ではなかった。腕のある弟子たちは、みな町民で、武士同士の試合に出すわけにはいかない。
千代以外、誰もいないのだった。
千代は、二郎が生まれるまでは、婿をとって道場を継いでほしいと、曽祖父と同じ病で数年前に亡くなった父上から、いわれていた。婿をとるのなら、何も剣を覚える必要はなかったのに、父上は、なぜか女子である千代にも剣を教えた。先年亡くなった祖母も、剣が達者で、父上と代わる代わる教えてくれた。
二郎を産んですぐに亡くなってしまった母のことは、うっすらとしか覚えていないけれど、母も剣をとらせたら、並みの男ではかなわぬくらいの腕前だったという。
祖母は、家に代々伝わるひな人形を箱から出しながら、
「雅江さんはね、そりゃあもう、強かったのですよ」
いいながら、両手に一体ずつ持った女びなと男びなを向かい合わせ、刀も持っていないのに、丁々発止と戦わせた。
小さかった千代は、手をたたいて喜んだものだった。
家に伝わるひな人形は、女びなと男びな、たった二体しかなく、古いせいか、色もあせて全体に黒ずんでいた。衣装は赤と群青だったけれど、遠目で見ると、二体ともずんぐりした体形ということもあって、どちらが女で、どちらが男なのか、見分けがつかなかった。
それでも、祖母は、桃の節句の時節になると、箱から取りだし、丁寧にほこりをはらい、甘酒と桃や桜の花をかざり、千代と二郎を呼んで、暖かい季節の訪れを祝った。
「それしかないかの。わしが、こうでなかったら……」
祖父が、無念さを声ににじませた。押し殺すような震える声が、祖父のかかえている不安を、いっそう感じさせた。
千代は、わざと大きな声を出した。
「負けないから。あんな輩には」
高価な流派のお手本書きを売ったり、付け届けをしてくる者に、優先して免許皆伝を与えたりする、あんな輩には。
香田道場は、護身法や野盗を撃退するのに役立つ剣術を教えているといっているけれど、その実は、商売として道場をやっているだけだ。藩の有力者にも大枚を包み、有力者の子弟たちが、大勢、道場に通うように仕向けている。
千代には、そんなやり方は、剣の道にあってはならない邪道としか思えなかった。
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