第10話 武蔵と善鬼
冴の父と弟子に見送られ、藤吾たちは、屋敷の外に出た。
このまま帰ってもいいのだろうか?
何かあったみたいだった。
「こっち、こっち」
美雪が、腕組みをしていた藤吾の腕を引っ張った。藤吾を引きずるようにして走り、屋敷から一番近くの路地に隠れた。
そっと、屋敷の様子をうかがう。
ほどなくして、冴の父と弟子の数人が、山伏のような白装束をして、出てきた。手にも、竹刀や大きな防具のようなものを抱えている。
屋敷の前にクルマが止まった。
冴の父たちは、あわてた様子で、クルマに乗り込んだ。
クルマが発進する。徒歩では、とても追えない。藤吾は、あきらめかけた。
「――藤ちゃん、早く!」
美雪が、自分の乗ってきたものと思われる自転車を引いてきた。当然のように後ろの荷台にすわる。
これで、追えっていうのか。自転車で。
「このあたり、信号多いから、離されても追いつけるよ!早く!」
藤吾の肩をバシバシ叩く。
こっちの身にもなってみろと、思いながら、荷台に美雪をすわらせ、歯を食いしばって、ペダルを踏む。
「重いなあ」
――痛っ!、今度は、頭をどつかれた。
本当のことを言っただけじゃないか。美雪に聞こえぬようにつぶやきながら、クルマを追った。
美雪の言うとおり、何度か離されながらも、そのつど、赤信号で停車中の、冴の父たちのクルマに追いついた。
足が鉛のように重く、もうペダルを踏むのも限界だと思いはじめたとき、ようやく、追っていた車が停まった。
町のほとんどの住民が、初詣などで年一回は必ず行く、八幡神社の前だった。
冴の父たちは、クルマを降りるなり、神社の鳥居を抜け、中年とは思えない素早さで、一気に、石段を駆けのぼっていった。
藤吾は、自転車を停め、ひと息ついた。
「――あっ、おい」
美雪が、荷台を押しやるようにして、自転車からとび降り、藤吾を追いぬいて、神社に突進してゆく。
「待てよ!」
藤吾は、あせった。自転車を倒しそうになる。道端の塀に、自転車をななめにたてかけ、美雪を追った。ひとりで行かせたら、あぶない。美雪は、夢中になると身の危険のことなど、忘れてしまう。
段を飛ばして、息を切らしながら、石段を走った。身体が固いので、段をとばすたびに、股が痛い。あとで股関節異常が見つかったら、美雪に文句を言ってやる。
石段の頂上にたどりついた時は、息切れとめまいで、身体が、ふらふらした。
あたりを見回す。
美雪は、どこだろう?
冴の父たちの姿も見当たらない。境内をゆっくりと歩く。小さな神社で、本殿まで、わずかの距離しかない。見落とさないよう360度身体をまわしながら、本殿の裏にまわってみた。
人の気配がした。話し声も聞こえてきた。男の、聞き覚えのある声だった。
思ったより広い一画で、観葉植物が植えており、小さな庭といってよいくらいの広さがあった。
そこに、藤吾のよく知る人たちがいた。
冴の父と、道場生たちが、一人のがっしりした体格の人物と、対峙していた。
その人物のすぐ前に美雪が立って、何か話しかけている。すぐそばには、倒されたらしい道場生が数人、胸や手など、打たれたらしい箇所を押さえ、苦しげな表情で座り込んでいた。
藤吾は、一瞬、目をうたがった。
――武だった。
体調が悪くて、学校を休んでいたのに。こんなところで、いったい、何を……。
と、武が動いた。美雪に向かって、手をのばす。美雪の身体が、頭を小突かれでもしたかのように、ぴんと、ちいさく跳ねた。そして、ぐらっと横に身体を曲げ、倒れた。
藤吾は、声にならない叫びをあげながら、駆けよった。
さらに、藤吾の横から、同じように猛然と、誰かが駆けよった。
藤吾とその人物が、美雪のところに着いたのは、ほぼ同時だった。
ふたりで、美雪の身体をささえる。
美雪は、蒼白な顔で、藤吾を見上げた。
「……あれ、宮田くんじゃないよ」
かろうじて、声を絞り出したようだった。
隣から、舌打ちが聞こえた。
藤吾は、驚いた。昨日出会った「オノゼンキ」と名のった男だった。
なぜ、彼が、ここに――。
「あいつも、とりつかれてるらしいな」
小野は、苦々しげにいった。
「この時代の奴らは、共鳴とか言うらしいが」
美雪を藤吾にまかせると、小野は、立ち上がった。小野も、武と同じぐらいの肩幅がある。背は少し低いが、踏みしめた両足の筋肉の盛り上がりは、学生ズボンの上からでも、よくわかる。
小野は、武に鋭い眼光を投げかけ、声を張り上げた。
「大上を倒したのは、お前か?」
横にいた藤吾は、驚いた。
大上に、何かあったのだろうか?
この男は、やはり、大上と知り合いだったのか。大上をかくまっていたのだろうか?
「試合をした。あやつが、弱かっただけだ」
武の発する声は、普段とは違っていた。重々しく、相手を威圧する声で、藤吾の腹にまで響いた。武の身体自体が、ひとまわりもふたまわりも大きく見えた。
小野は、眉を寄せ、武をにらんだ。
「……おもしろい。わしとも、試合えるか?」
武は、豪快に笑った。いつもの、遠慮がちな笑いとは、まるで違っていた。
「――よかろう。いつでもよいぞ」
待て、という冴の父らしい声が聞こえたが、遅かった。
藤吾の左頬に、小野の起こしたうず巻く風があたった。
小野は、一瞬で武の正面に立っていた。かまえた両手を振り下ろす。その手には、すでに、うねるように輝く白い刀が現れていた。
藤吾は、息をのんだ。まっぷたつに切り裂かれる武の姿が、目に浮かぶ。
が、違った。
武は小野に向かって、ハエでも追い払うように、片手を振った。
巨大な何かが、同じく巨大な何かにぶつかった。ぶつかりあった衝撃が地面を伝わり、腰を震わせ、藤吾の喉元までとどいた。
武の手にも、青白く輝く太い刀が現れていた。武は、軽く振ったように見えたのに、小野の刀は、小野がそりかえり、背中が地面につきそうになるくらい、後方にはじかれた。
小野は歯をくいしばり、武の刀から受けた衝撃を、必死に耐えていた。とん、と軽く地面を蹴って、一歩離れると、体勢を立てなおし、刀を正面にかまえた。
かまえた途端、小野は、うしろに弾きとばされた。武が突進し、刀ではなく、ひじを小野のかまえた腕に叩きつけたのだ。
地面に転がった小野を、武が蹴りつけた。小野は、さらに転がった。
と、いきなり、小野が跳んだ。真上から、大上段に振りかぶった刀を、力の限り叩きつけた。
武は、すでに動いていた。紙一重で小野の一撃をかわし、軽く、片手を振った。
小野の巨体が、もう一度、今度はもっと遠く、庭の端まで弾きとび、ころがった。もう動けないように見えた。
「待て!」
藤吾と、戦いを見守っていた冴の父が、同時に叫んだ。
藤吾は、武の前に立って、問いかけた。
「誰なんだ?」
武の容貌は、さほど変わっていない。が、とてつもない存在感が、藤吾の全身に激しくのしかかってきた。
冴の父も、藤吾の隣に立った。
「もう、いい。これ以上は無理だ」
武は、鬼面のようだった表情を解き、残念そうに、つぶやいた。
「もう、終わりか」
「誰なんだ?」
藤吾は、もう一度、問いかけた。
武の眼光が、藤吾の目を射抜いた。藤吾は、一瞬、息ができなかった。
「……宮本の、武蔵と申す」
武のなかの男は、おごそかに、腹に響く低い声で告げた。
……ミヤモト・ムサシ。そこにいる誰もがつぶやかざるをえなかった。
あの、伝説の剣豪。
……宮本武蔵なら、〝こだま〟が残っていても、おかしくはない。武は、武蔵の〝こだま〟に共鳴したのか、霊魂の波長が合っていたのか。
藤吾は、汗を流し、毎日ひたすら柔道の練習をしている武の姿を思い出した。小学生の頃からのおなじみの風景。
よく続くな、よっぽど柔道好きなんだな。 何も打ち込むものがない藤吾は、いつもうらやましかった。
剣の求道家の武蔵、……重なるものがあったのかもしれない。
が、このままにはしておけない。なんとかして、武から宮本武蔵の〝こだま〟を、切り離さなければならない。
「あなたは、何をしたいんだ?」
藤吾は、震える声で問いかけた。
いったい、今のこの時代に、何をしようというのか。
武蔵は、あごに手をやり、首をかしげ、にたりと笑った。
「はて、何をしようかの」
言いながら、武蔵の顔から表情が消えた。見る間に、顔の輪郭までが、おぼろになってゆく。
武蔵の身体が、いや武の身体が、ふいにゆらいだ。大きく見えていた身体が、急にちぢみ、くずれ、倒れた。
藤吾は、そのまま、武の身体を受け止めた。力の抜けた身体はずっしりと重く、藤吾は片ひざをついた。武の身体はシャーベットのように固く、冷えきっていた。
冴の父の弟子たちがクルマに運び、介護をしてくれたおかげで、武の顔に赤味が差してきた。
「よかった」
すでに回復していた美雪が、ほっとした声を出した。
藤吾は冴の父に、美雪と武を家まで送るよう頼んだ。
「むろん、そのつもりだが、君は大丈夫か」
藤吾は、ひとりで大丈夫だと伝えて、クルマを降りた。が、地面に足を下ろした際に、少しふらついた。
冴の父が、やはり君も送っていこうと手を差し伸ばすのを、
「ほんとうに大丈夫です」
と断った。いろいろと、ひとりで考えたかったのだ。
「わかった。だが、また会おう。……君にとりついている、その〝こだま〟の人物についても、話しあいたいものだ」
冴の父は、鋭い眼で、藤吾の身体の奥の、そのまた奥を見すえた。
藤吾の身体の奥底で、何かが反応したようだった。が、すぐに静まってしまった。
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