第8話 道場での戦い

 何だろう?

 はっとした。

 音がしない。竹刀を打ち合わせる音が、存在していない。

 一瞬、竹刀を打ち合わせているように見えた。が、その瞬間にも、音はしないのだった。

 よく見ると、冴と道場生の竹刀は、ぶつかっているように見えて、わずかな隙間を残し、すれちがっていた。

 道場生は何も考えず、ただ激しく打ち込んでいた。冴が、打ち合わすその瞬間に、相手の動きを読み、竹刀でぎりぎりの距離をはかりながら、身をさばいて、よけているのだった。   


 誰にでも、できることではなかった。

 道場生が再び、裂ぱくの気合とともに打ち込んだ。

 と、冴は、するりとよけて抜き胴を放った。

 軽く胴を打ったように見えた。

 が、道場生は、声もあげられず、跳ね飛ばされた。

 倒れて、腹を押さえ、身動きもしなくなった。

 藤吾は、思わず駆けよった。

 道場生は、苦痛に顔をゆがめていた。かろうじて、意識を保っているようだった。

 藤吾は、防具や頭の手ぬぐいをはずしてやり、楽な姿勢をとれるようにした。


 冴が、藤吾のほうを向いた。 

「――来ましたか」

 藤吾は、顔をしかめた。昨日より、細く低い、かろうじて聞き取れるような声だった。冴の話し方ではなかった。 

「練習としても、やりすぎじゃないか?」

 藤吾は、道場生たちを、指し示した。

「これくらいじゃ、練習ともいえません」

 冴は、うっすらと、笑みを浮かべている。

 藤吾は、寒気を覚えた。

 これは、冴ではない。身体は冴だが、誰だか、藤吾の知らない人物が、喋っている。 


「――竹刀をとってください」

 冴は、自分の持っている竹刀の先を、藤吾に向けた。

 藤吾は、手を握りしめた。手のひらに大量の汗をかいていた。

「剣道は、よく知らないんだ」

 冴は、笑みを浮かべたまま、何もいわず、一歩踏みだした。竹刀の先端が、真剣の刃先のように、喉元にせまってくる。

 藤吾の全身から汗が、どっと吹きでた。首筋から背中にしたたり落ちる汗の動きを、はっきりと感じた。    

 やむをえず、竹刀を拾いあげた。

 防具は、つけ方がわからない。何とか、籠手だけつけた。 


 冴が、ニヤッと笑った。

 これが、剣気というものだろうか。正面を向いた身体全体に、強い水流に逆らって、必死で水を押し返しているときのような圧力を感じた。

 と、冴の身体が、揺れた(ように見えた)。

 藤吾の手首と肩先に、激痛がはしった。いつ打たれたのかもわからなかった。

 打たれた右手の籠手がへこんでいた。竹刀を、手でささえられず、剣先が道場の床にぶつかった。


「まだ、本気ではないようですね」

 藤吾は、息をのんだ。

 冴の顔に見知らぬ男の顔が重なっていた。細面の、狐を思わせる顔立ちの男だった。するどい眼光は、藤吾の身体をつき抜け、背後の板壁を突き刺すほどだ。

 冴が、ふたたび、竹刀を振り上げた。

「藤ちゃん!」

 ふいに、脇から、声が聞こえた。

 美雪の聞きなれた声。

 いったい、どうして、ここに……。

 が、考える暇はなかった。冴の一撃が襲ってきた。無我夢中で振りあげた竹刀に、偶然、冴の竹刀がぶつかった。    

 素人のでたらめな動きが功を奏し、冴にも藤吾の動きが、予測できなかったのだ。


 冴に重なった男は、いらだった。     

 男は、少し下がって、藤吾と距離を置いた。何かを思いついたように、またニヤッと笑った。

 竹刀を振り上げる。

 男は、いきなり横を向いた。視線の先に、美雪の姿があった。

 男は、軽々と跳び、美雪のそばに降りたった。何か呟くと、竹刀を、激しく振りおろした。

 藤吾の身体の奥底で、何かが、爆発した。一瞬で、男と美雪の間に割ってはいると、手に持った竹刀をひねった。

 竹刀の下半分が、男の竹刀に当たり、はじき飛ばした。

 天井近くまで飛んだ竹刀は、板敷きの床に一直線に落ち、激しい音をたてた。 


「――やっと、本気になりましたね」

 男は、心底うれしそうだった。

 藤吾は、目を見開いた。

 竹刀をはじき飛ばされ、何も持っていなかったはずの男の手に、鈍く白色に輝く刀が握られていた。

 男が、どこから、その刀を取り出したのか、わからなかった。手のひらから、突然、出現したようにも見えた。


 男が、笑みを浮かべたまま動いた。

 藤吾は、まばたきをする間もなかった。激しい衝撃を腕に感じたあと、今度は、藤吾の竹刀が、空中高く、跳ねあがっていた。

 男の持つ刀は、白い輝きが、柄の部分まで続き、境い目となる鍔がなかった。握っているというより、軽くさわって扱っているように見えた。


 男は細い目を、さらに細くして、藤吾を見ていた。もう、笑ってはいなかった。白い刀を、刃先を小刻みにゆらし、前に構えている。

 刃先が、一瞬、床方向に沈むと、男は、藤吾に向かって突進した。

 藤吾の目の前に、刃先が来た。するどい突きが、藤吾の喉に叩き込まれた。

 藤吾の身体は、意識する間もなく、動いた。身体をほんの少し左ななめに移動させ、突きを交わすと、直前まで持っていなかったはずの〝刀〟で、男の籠手に切りつけた。

 男も、身体をななめ後方にそらせ、かろうじて、よけた。


 藤吾は、不意に現れた、その〝刀〟を見た。灰色に輝くそれは、藤吾の手のひらの中に浮かんでいた。固く握っているはずなのに、モノとしての感触がなかった。何か、ひやりとしたものが、手に触れている、プリンのようなものを通して、手に軽くくっついているような手触りだった。  

 藤吾は、灰色の刀を握り締めた。柔らかい反動が、手のひらにじんわりとかえってきた。


 と、刀をかまえる間もなく、男が激しい突きを入れてきた。

 身体が自然に動き、男の刀の側面を、藤吾の刀が軽くこすった。

 男は、激しい反動を受けたかのように、大きく身体を右にかたむけ、ころびかけた。が、すぐに体勢を建て直し、再び、突進してきた。

 藤吾も一歩踏み出し、前のめりになって、迎え撃った。今度は、藤吾の刀が、空を切った。肩とひじに鋭い痛みがはしる。よけきれなかった。


 男は、正面に立ち、またニヤッと笑った。

「名の知れた剣客とお見受けします。――名のる気はないのですか?」

 藤吾は答えなかった。答えようがなかった。

「名のりたくないのなら、それもよいでしょう」

 男はいっそう目を細めた。細い目がさらに細くなり、まぶたの隙間からのぞく瞳に、鋭さが増した。酷薄そうな眼差しから、藤吾は、目を放す事が出来なかった。

「われは、高柳又四郎――」

 名のりながら、男はさらに激しく、打ちかかった。何度か打ち合い、そのたびに、身体の各所に鋭い痛みが生じた。肩、ひじ、すね、手首、太ももと、痛む箇所が増え続け、藤吾の気力を削いだ。

 藤吾は、痛みと疲労から、今にも倒れこみそうだった。

 が、藤吾の中にある何かが、それを許さなかった。


「終わりにしましょう」

 男は少し息を切らしながら、低い声で告げた。

 藤吾が、その言葉の意味を理解する間もないうちに、白く輝く刀身が、眼前にせまった。男の刀が、藤吾の手首を叩きつぶそうと、白い軌跡を描いて振り下ろされた。

 と、藤吾の身体のなかで、何かが動いた。

 藤吾の刀が、ふっと消えた。構えていた両腕を、わきにだらんとたらした。


 男の刀が、逆に空を切った。

 藤吾の内側で、激しい気迫が沸きおこった。

 一気に身体を男に寄せる。男の手首を両腕でつかむと、腰に相手をのせた。もがく男を意に介さず、背負うというより、肩のさらに上まで、高々とかつぎ上げると、前方に勢いよく投げた。    

 男は、必死で受身をとろうとしたが、激しく背中と腰を板間に打ちつけ、息ができず、空気の抜けたようなあえぎ声をあげた。


「藤ちゃん!何してるの。女の子に」

 美雪が、怒った声で、叫びながら、藤吾を押しのけると、倒れたままの吉見冴に駆けよった。

「何って、こっちがやられそうだった……」  

 藤吾は、目を見張った。

 戦っていた男の姿は、どこにもなかった。青ざめて、白い肌が、よりいっそう白く見える吉見冴が、そこにいるだけだった。 


「いくら、相手が刀、持ってるからって、やりすぎよ!」

 吉見冴を抱きかかえながら、美雪がどなった。

 藤吾も、蒼白な顔をした冴のそばにしゃがみ込んだ。冴は、今、立ち上がれる状態ではなかった。

 今まで、相手をしてた男は、どこへ行ってしまったのか。いや、冴のなかの、どこに引っ込んでしまったのか?

 見当もつかなかった。

 吉見冴は、美雪の腕のなかで動かず、目を閉じたままだった。

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