第4話 困惑

「藤ちゃん、先輩が……」

 先輩が気がついたという美雪の声で、そばに寄った。

 田代先輩は、蒼白な顔で、聞いてきた。

「どうなった?」

「あいつ、逃げたぞ」武が横から口を出した。

 藤吾も、肯定のしるしに、うなずいて見せた。 


 先輩は、大きく息を吐いた。

「あいつ、南高の剣道部だ」

 疲れたのか、目をつぶった。しかしそのまま、話し始めた。

「あいつは、去年の地区大会でうちに負けた南高の主将の大上だ」

 いったん口を閉じ、呼吸をととのえる。

「団体戦で主将に敗れた奴だ。奴に勝って、うちが勝ちを決めた。そこから勢いに乗って準優勝ができたんだ。そこそこ強かったが……」


 先輩は、閉じていた目を開いた。

「今日の奴は、別人だ。剣気が尋常じゃなかった」

 あんなのは見たことがないと、田代先輩は呆然とした眼差しで、続けた。先輩も二段を持っている。うちの剣道部では、断トツの腕前で、実際のところ、まともに戦える(試合として成り立つ)のは、部内では主将だけだった。

 それほど強い先輩が、尋常ではない強さだったという。


 藤吾は、背筋が寒くなった。わきの下に、冷たい汗が、にじみ出てくる。

 よく、何もせず引きあげてくれたものだ。まかり間違えば、命もなかったかもしれない。それくらい、あいつは異常だった。

「立川先生をやったのは、あいつかもしれない」

 美雪の肩を借り、立ちあがりながら、先輩は続けた。

 藤吾が手を貸そうとすると、美雪は大丈夫だと断った。荒い息を吐きながら、田代先輩をささえ、ゆっくりと歩き始める。

「教師が襲われているのは、うちだけじゃない。――市内の高校は、のきなみやられてる。襲われてるのは、剣道に柔道、フェンシングなんかの、格闘技系の部活動の顧問、コーチをやってる教師。――なんで、彼らが襲われるのか、わからないんだ」


 じっと、聞いていた美雪が、

「うちの部も、だいたいの事は、つかんでて……。通り魔といいながら、特定の、それも教師が襲われてるらしいって……。格闘技系の部の顧問とまでは、わかってませんでしたけど」

「こんなことは、やめさせないといけない。格闘技は暴力じゃない。奴にもそれぐらい、わかってるはずなのに……」

 先輩は、か細い声で言い、そのあとは、暗い顔で、黙ったままだった。


 病院で、田代先輩の家族と落ちあうと、青ざめた顔の先輩を頼み、三人は黙りこくって、家路についた。

 藤吾は、テンゼンと名のった、あの、おどろおどろしい侍のことを、知っている気がした。

 が、思い出せなかった。記憶のはるかかなたに、何か眠っているような気がするのに、どうしても、思い出せなかった。



 藤吾たちの住む市内には、いくつかの小山があって、市の中心部には、その中でも比較的大きめの小山が三つ、かたまっている。

 三つとも、遠目からは、山林の葉っぱの色の違いで山全体に浮かび上がった模様が、亀の甲羅のようだったため、通称、亀山と呼ばれている。

 三つまとめて呼ぶときは、たんに亀山。区別して呼ぶときは、大きいものから順に、父亀山、母亀山、子亀山と呼んでいた。

 三つの小山のうち、北東に位置する子亀山には、山頂まで続く、細い、人ひとり通れるかどうかという曲がりくねった道があった。 その道の途中に、さらに細い分かれ道があり、その先に、放棄され住む者のいない荒れた寺があった。


 今、荒れ寺の中から、うなるような、きしるようなお経を唱える声が聞こえていた。いや、お経というより呪文だろうか。

 ぶなや椎の木、樫の木の大群が無作為にならび立つ、うっそうとした森林のなかに、途切れることなく声は、流れ続けていた。


 荒れ寺の崩れかけた門をくぐり、やはり崩れかけている本堂をのぞくと、十二畳ほどの狭い堂内の一角が、ぼうっと白くけぶっている。近づくと、低い台の上に巻物が開いた状態で置かれ、その前で白いもやもやしたモノが、冷気を発しながらうごめいている。

 呪文は、そのうごめいているモノの内部から発せられ、ひたすら重く、鬱々としたメロディを奏でていた。

 

 白くうごめくモノの真下に、倒れている人影があった。息をしておらず、何週間も前に亡くなっているのは、明らかだった。白装束で身を包み、顔面には、死してなお目的を達しようとする、強い意志のこめられた、憎悪の醜い表情が刻まれていた。 

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