第3話 接触 その一

「……腹、減った」

 武が、ことさらつらそうに言う。

 無理もない。もうすぐ夜の十二時になる。夕食を食ってから数時間は経つ。武にとっては、四度目の食事(夜食)の時間が、過ぎている。

「文句言わない」

 美雪が口をへの字にする。

 通り魔の見まわりに出て、十日以上。

 何の成果も上がらないためか、日々、口調が厳しくなり眉間のしわも深くなっていた。 


 二人を見ながら、藤吾もため息をつく。

 聞きこみ調査で、通り魔の出没する、だいたいの場所と時間帯がわかったので、毎晩、その地区を見まわることにしたのだ。

 武には、ボディガードとしてついてきてもらった。かわりに、美雪が市内にある有名店の一番おいしいと評判の、手作り蒸しパンをおごることになっている。

 自分にも何かおごってくれと言いたかったが、やめた。

 そんなことを言おうものなら、二倍、三倍にもなって、反論が来る。口げんかの際の美雪のマシンガン・トークは、藤吾どころか、アメリカ大統領でも、たちうちできない。


 今夜も、無駄足に終わりそうだった。

 通り魔が、この地区だけで、犯罪をおかすことに決めているとは思えない。少し考えれば、同じ場所でばかり、犯行を続けるのは、見つけてくださいと言っているのと同じだと、気づくはずだ。もうこの地区で、人に切りかかることは、ないかもしれない。その可能性のほうが高い。


 美雪があきらめるまではと思っていた。が、思っていたより、体力を使い(何時間も、目いっぱい、歩きまわるからだ)、疲労の蓄積が激しい。今週、何の成果も上がらなかったら、絶対に、見まわりはやめてやる。

 藤吾は、美雪に何を言われようが、そうするつもりだった。


「おい、あれ」

 武が指差すほうを見ると、田代先輩がいた。

 急いでいるのか、早足で、一心に前方を見つめ、通りの向こう側を、藤吾たちと同じ方向に進んでいた。

 誰かを追いかけているようだった。

「田代せんぱあ~い」

 美雪が元気よく、声をかけた。

 彼女の声は大きい、聞こえていないはずがなかった。

 が、先輩は気づく様子もなく、そのまま角を曲がっていってしまった。


 どうしたんだろう?

 武が、愛想がないなあ、と顔をしかめている。

「――行く」

 美雪が低い緊迫した声で、二人に声をかけると、駆け出した。

「おい、何だ?」

 藤吾は、やむをえず、美雪の後を追った。

「おおい?」

 武もあわてて、ふたりを、追った。


 藤吾は、角を曲がって、美雪と田代先輩の姿を探した。

 その通りを、少し進む。

 ――いた。

 服飾店と楽器店の並ぶ歩行者天国の右側の歩道、50メートルほど先を美雪が歩いている。その先に、田代先輩の後ろ姿も見える。 気になったのは、田代先輩の少し前を歩く細身の学生だった。白い半そでワイシャツに、黒いズボン。生真面目に、校則どおりの外出の際の服装をしている。

 この街の学生なら、普通、そんなことはしない。上下ともに、財布の許す限り、好みのファッションに身を包むはずだ。よくコーディネートを考えろと言われる藤吾でさえ、この辺りを、あんな格好では歩かない。


 武と一緒に、美雪の後ろ約10メートルまで追いついた。

 田代先輩の尾行している学生が、右に向きを変え、路地に入った。

 先輩と、続いて美雪も路地に入る。

 嫌な予感がして、藤吾は急いだ。


「先輩! 先輩!」

 路地の奥から、切迫した声。

 藤吾と武は、ポリ製のゴミ入れやダンボール、枯れてしまった盆栽などの置かれた狭い路地を走った。

 一瞬、土ぼこりが舞う。

 雑居ビル裏側の塀でふさがれ行き止まりになっている場所で、倒れた田代先輩を、美雪が抱えあげようとしていた。


 そばに、さっき見た細身の学生が、ぼんやりした表情で立っている。

 先輩の顔は、異様に白かった。開けたままの口から、つうーっと、つばが糸を引いて落ちようとしていた。

「藤ちゃん!」

 美雪が泣きそうな顔で、こちらを見た。

 武が、立ったままの学生に、脅すように言った。

「おい」

 学生が、うつろな目でこちらを見る。

「おい。(お前は)誰だ?」

 武が、なおも問いつめる。

 あれ。藤吾は目をこすった。二重写しのように、学生の姿に、何かが重なってみえた。

 学生は、電波状態の悪いところからかけられた携帯電話のような声で、ゆっくりと答えた。

「ミコガミ……テンゼン……。」

「ミコガミテンゼン? 何だ? 時代劇みたいな……ふざけてるのか?」

 武が怒りをつのらせた声をあげた。


「……」

 学生は答えず、辺りを見まわしていた。

初めて訪れた場所で、とまどっているようにも見えた。

 うつろな目をのぞけば、浅黒い肌に、袖から覗く筋肉の盛り上がった太い腕、広い肩幅、上体の揺るがないがっしりした腰、何かスポーツをやっている人間に違いなかった。 

「こいつ」

 武が学生のシャツのえりをつかんだ。なおも、名前を言えと怒鳴る。

 と、学生が動いた。

 えりをつかんでいた武の手が、激しく跳ねのけられた。武が苦痛の声を上げる。つかんでいた手の指が逆方向に折れ曲がっていた。すっと横に移動した学生の右手に、何か細長いものが握られている。 


 痛めた利き手で無理やりこぶしをつくり、武が殴りかかった。

 学生は手にした細く光る何かを、ななめ上から振りおろした。

 瞬間、風圧が鼻先をかすめた。武の身体がゴムのようにはじかれ、路地の片側、雑居ビルの汚れた壁面に叩きつけられた。背中を激しく打って地面に転がった武は、息も絶え絶えで、身動きができない。 

 学生がゆっくりと近寄り、両手で握りしめた鈍く光る刀状のものを、ふたたび振り上げた。

 藤吾は、震える膝を無理やり動かして、武と学生の間に割って入った。


「やめろ」

 もはや、錯覚ではなかった。

 学生の身体全体に、もうひとりの人物の影が重なっていた。首の恐ろしく太い、険しく充血した目を持った侍だった。

 テンゼンというのは、ひょっとしたら、こいつの名前なのか。

「やめろ」

 藤吾は、繰り返した。

 テンゼンは、藤吾を見ると、いったんは振り上げた腕を下ろした。が、藤吾が頑として動かないのを見ると、再び腕を振りあげた。 藤吾は、かなわないながらも、とにかく腕を前に上げ、防御姿勢をとった。


 テンゼンが威嚇の叫びをあげる。振りあげた腕の筋肉が、異常なほど盛りあがった。

 その時、藤吾は自分の内側から何かが湧きあがってくるのを感じた。湧きあがった何かが全身をめぐり、藤吾ののどに集まった。のどの奥が熱くなる。

 勝手に口が動いた。

「――典善!」

 テンゼンが、目を見開いた。刀を握った手が震え始めた。藤吾の顔を食い入るように見る。

「あなたは……まさか……?」

 か細い声を出し、振り上げていた腕を、だらんと脇に下ろした。握っていた刀が、空間に溶け込むように、すっと消えていく。

 テンゼンの姿自体、ぼやけ始めた。替わって、元の学生の姿がはっきり現れてきた。

 学生は、もはや藤吾を見ておらず、ぼんやりと定まらない視線を、前に向けていた。充血していた目も元に戻っていた。


「おい」

 藤吾が声をかける。

 学生は、いぶかしげな表情で、藤吾の方を見た。

 藤吾は、学生の腕をつかんだ。

「おい」

 ようやく声に気づいたのか、学生は眉を寄せ、目を細めた。

 と、学生の目に光が戻った。はっとしたように、下を向き、つかまれた腕を見た。

 もう一度、声をかけようと、藤吾は、口を開きかけた。


 ふいに、学生は手を振りはらい、表通りに向かって駆けだした。

「待て!」

 藤吾は、路地の出口まで追いかけたが、もう姿が見えない。人通りも増えてきたところで、人ごみにまぎれてしまい、見つけられなかった。

 がっかりして戻り、起き上がって地面に座り込んでいた武に手を貸し、立ち上がらせた。

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