一目に惚れて…
鈴ノ木 鈴ノ子
ヒトメニホレテ
魔術師、陽子の朝は早い。
ぜんまい式掛け時計に巣食う鳩が鳴き声を上げる5秒前に瞼を開けて素早く目を覚ますと、枕元で充電しているスマホを手に取り、飛び出してきた鳩に投げつけて扉の中へと押し込んだ。
「まだ、朝じゃない、鳴くな」
寝癖のひどい頭を掻きむしる仕草をしてベッドから起き上がった陽子は、もう1世紀は使っている蓄音機のスイッチを入れる、何かを擦るような音が数秒ほど波打ち。やがてシャンソンを歌う声がホーンから流れ始めた。少しざらつく耳障りの良い音に陽子は満足しながら、オール電化のキッチンを抜けて、洗面所へと入った。1LDKの小さな部屋が今の陽子の住処だった。
伝統的なイギリスの魔術師家系に生まれた陽子、いや、元の名前など忘れてしまった。生まれは生粋のオックスフォードで魔術師見習いから、正当な魔術師に昇格を終えると暫くはイギリスを離れ欧州の夜を渡り歩いた。
勘違いされては困るが、娼婦ではなく、所謂、西洋占星術師として、あまり外れず、かと言って、的中もさせないという術を用いて、貴族や商人を夜会で占った。もちろん魔術師であるから、悪い者につけ入り、事柄を騙し、運命を騙し、猜疑心や怨嗟を煽り、それに一喜一憂する姿を不適な笑みを浮かべて見つめながら、日々を暮らしてきた陽子だったが、得意先の貴族が催した夜会の舞踏会において1人の黄色い肌に黒い髪のサーベルを下げた東洋人を紹介された。
白色人種が優秀だと言う人種差別が罷り通っていた時代において、その黄色人種のアジア人の男性を会場の片隅で見かけた陽子は、召使いが増えたのか程度にしか考えていなかったが、ワイングラスを傾け館のテラスで夜風に当たりながら、時間を潰していると主催者である館の伯爵から声をかけられた。
「夜の淑女、今日はお越しくださり、ありがとうございました。なかなかに盛り上がりまして、私も助かりました」
夜の淑女とは陽子につけられた俗称だった。
今日は彼の妻とその取り巻きに術を行い、当たり障りのないことを伝えてやっていた。伯爵は外見ではスマートな紳士だが、内面は滅茶苦茶に等しい、娼婦、妾だけでは飽き足らず、他の人の妻にまで手を出している好色家だ。年齢に見境はなく、相手が壊れて仕舞えば嬲りに嬲り、最後は殺してしまうほどの、人の風上にも置けぬ以上、風下の外れあたりがぴたりと似合うロクデナシだった。箱入り娘である美人の妻は夫の悪行には気づかず、毎日、陽子からは到底つまらないと思えるほどの貞淑な妻を健気に務めていた。
「こちらこそ、お声かけ頂き嬉しいわ、伯爵」
艶かしい視線を作り嬉しい表情を貼り付けて伯爵にそう伝えると、まんざらでもない上品な下卑た笑を浮かべて頷かれた。
「ああ、ご紹介がまだでしたな。こちらは世界の最果て極東の地にあります、ジャパンという島国からお越しになられたヤツです」
夜会の標準語である卑しい英語から、フランス訛りの地方独特の言語に言い直して、伯爵は彼を小馬鹿にする隠語でヤツといった。
「あら、二足歩行ね。服も着ているわ、ジャパンは丁髷とキモノとか言う服を着ているんじゃなかったかしら」
同じ言語で罵った返事を返すと頷いた伯爵が英語でヤツを紹介してきて、互いに下卑た笑いを浮かべながら彼が自ら自己紹介をしてくるのを聞いた。
合わせるのはとても面倒だが、私には館でやる事があるので伯爵の言葉遊びを無碍にして気を悪くするわけにはいかない。
「大日本帝國海軍、大使館付武官、榊原三郎 中佐です。夜の淑女にお目にかかれて光栄です」
イギリス訛りの英語は陽子の古く錆びついてしまった琴線に触れる懐かしい発音だった。二言三言ほど挨拶を交わし合い、それが会話となって弾み始めた最中、使用人に何かを伝えられた伯爵は不気味な笑みを残して2人から離れて行った。
「タバコを吸ってもよろしいですか?」
軍服のポケットからシルバーのシガレットケースを取り出した榊原がそれを開き指で示してそう言った。
「あら、私もちょうど切らしていたの、1本頂けるかしら?」
小馬鹿にした言い方で言ってやると、榊原は気にするふうでもなく、どうぞ、言わんばかりに差し出した。軽く微笑んでから白い口付きシガレットを月光で艶かしい色合いの指で挟んで取り出すと、優雅な仕草で口元へと運び、ルージャ レーヴルの輝く形の良い唇に咥えた。
「火をどうぞ」
マッチを擦った彼が口元へと火を寄せてきたので先端へと火を点ける。少し吹かした後に煙を吸い込みゆっくりと吐き出して一息つくと、ふと彼の言った言語に驚いた。
「あなた、喋れるのね」
「ええ、もちろん」
フランス訛りの地方独特の言語で返事をした榊原がにこやかに笑う。彼は和かな笑みを浮かべながら、屈辱的な言葉でさえも表情を変えずに聞き流していた。
「あら、意地悪な人ね」
「はは」
榊原は笑うと陽子と同じようにタバコを取り出して火をつけ煙を深く吸い込み暫くしてからしっかりとゆっくりと吐き出した。白い煙幕が辺りを漂い風に運ばれて消えていくのを眺めている横顔を見つめて陽子は何の前触れもなく思わず頬を染めてしまった。
タバコを吸うために少し持ち上げられた軍帽から覗く顔立ちは、目鼻がすっと通り、少し痩せこけた頬と、目の下にあるラインのようなクマがミステリアスさを醸し出している。今までに付き合いのあったどの男性にもない、独特の気配もまた陽子の感情を揺れ動かした。魔術師になってからというもの、人を人としてあまり見ることのできなくなった陽子にとって初めての感情であった。体の底から、いや、動きを無くしていたはずの心の湖面が突如として湯のように湧き上がり、やがて湯気となって心を満たしてしまうと、陽子は初めての感情に戸惑いを感じた。
「どうかされましたか?」
「い、いえ」
振り向いてじっとこちらを見つめてくる視線に小惑い、まるで生娘のように動揺を隠すことなく視線を下げてしまう。上擦った声で返事を返してしまえば、あとは用事を思い出したように取り繕いながらその場を足早に離れたのだった。
館からの帰り道、見上げた月の輝きを全身で浴びながら、頬と体の火照りを夜風に晒して、取りきれぬ熱を幽霊の護衛に振り撒いて冷ましがら、自身の屋敷までをぼんやりしながら歩いていった。
そんな彼と再び再開したのは、伯爵の館で再び行われる夜会に誘われた新月の夜のことだった。
夜会が開かれるはずであったのに、伯爵の館はもぬけの殻のように静まり返っており、門灯すらも灯っていない有様であった。意地汚い門番の姿も見当たらず、私は護衛の幽霊たちを引き連れたたまま館の重厚な扉を開け放った。
闇が静寂と共に室内に満ちていた。
いつもなら美しく光るシャンデリアも、光を取り入れる天窓も、壁にかけられた電灯も、全てが光を失い、そして、黒一色で覆われている。目を凝らすと中央に据えられている夜会で使われる会場へと続く階段の隅に小さな光が瞬いているのに気がついた。
「こんばんは、夜の淑女さん」
コツコツと靴音を鳴らしながら榊原中佐がこちらへと歩いてくる。サーベルを吊る金具の音が軽く響き、彼の右手には金属の光沢を失い、何かがべっとりと付着したと思われるサーベルが握られていた。私がそれにに視線を向けたのが分かったのか彼は壁際の虚空に振るう。付着していた何かが壁へと跳ね飛んでシミのように広がっていくのが、闇に慣れた私にもしっかりと見えた。
ある程度の距離を取りながら榊原中佐が立ち止まる。
「今日は夜会じゃなかったかしら?」
「いえ、今日は中止となりましたよ」
「中止?私にはそんな連絡は来ていないわ・・・」
「そうでしょう、貴女への手紙は私が握りつぶしたんですから」
小刻みに失笑した榊原中佐はサーベルを持ち直すと、素早い動作でこちらへ構え直した。その全身には殺気が満ち溢れ、その溢れ出した気は刃の輝きをも覆い隠すほどだ。
「2つ質問を宜しいでしょうか?」
前回聞いた声とは明らかに違う声が私へ投げかけられた。
サーベルを構える彼の視線がしっかりと私を捉えているのが闇の中でも分かるほどである。
「あら、レディに質問?男なら1回で済ませなさい、無作法よ」
私は護衛の幽霊達にその場に留まるように左手で合図をすると、お気に入りの香水を振った扇を取り出して広げ、優雅に自身を仰いで余裕を露わにして見せる。
彼の視線がほんの少しだけ緩んだ。
「あはは、これは失礼、確かに無作法でした、では、一つだけ。この伯爵が東洋人の女の子を嬲り殺したのはご存知か?」
なるほど、伯爵の趣味がついに彼自身に牙を向いたようだ。
「伯爵の趣味の話ね、噂ぐらいしか知らないわ」
「なるほど、知ってはおられたわけだ」
「ええ、もちろん。それに興じたことは一歳ないけれど」
「なら、結構」
そう榊原中佐は言ってサーベルの刃を鞘へと収めると、先ほどまでの恐ろしいほどの殺気はまるで蝋燭の火が立ち消えた時のように霧散している。
「どうやら貴女は無関係のようです、その供回りの幽霊がそう証明していらっしゃる」
「あら、やっぱり見えているのね」
そう言って護衛の1人、私の前に立ち両手を広げて立ち塞がる少女の頭を優しく撫でた。嬉しそうに振り向いた幼子の右半分の顔は黒く塗りつぶされて見えないが、左側の美しい顔は嬉しそうな笑みを湛えている。
「その子もここで?」
「ええ、怯える魂を館の中で見つけてね、私の眷属にしたの」
「連れ歩いていたというわけですか・・・」
「そうよ、どれくらい連れ歩いてみたら、伯爵が怨嗟に塗りつぶされて、この家が没落するのかを見てみたかったのよ」
私は深く静かに笑いながら私の後ろに控えている子供達に前に出るようにと扇で指示をする。暗闇の中から百人ほどの人体の一部が黒く塗りつぶされた少年少女が姿を現してくるのを見た榊原中佐は煙草をゆっくりと吸い、自身を落ち着かせるようにしっかりと煙を吐き出した。
「これはこれは・・・、伯爵もどうしよもない人間だったのですなぁ」
「伯爵が人間ですって?違うわ、あれは人の皮を被った悪魔よ」
私は彼の言葉を嘲笑うような言い方で正した。
「確かにその通りですね、でも、てっきり魔術師さんなら呪い殺すものだと思っていましたが」
「気がついていたのね。でも呪い殺すなんて無理よ、対価がないもの、この子達の魂を対価に呪い殺すなんて私はできなかったわ」
「優しいんですなぁ」
「向けられてくる愛くるしい笑顔に、愛くるしい仕草を見て仕舞えばね。ちょくちょくと私がこの館に足を運んでいたのはね、怯えて囚われたままの魂達を連れ帰るためよ。私は悔しいけれど彼を殺すだけの腕力もないもの」
「なるほど」
黒い髪をした幼子が榊原のもとへと駆け出していき榊原の足に勢いよく抱きついた。顔は真っ黒で右手も黒くなっている。それでも、全身を使って会えたことの嬉しさを表現するように、しっかりとその足を抱きしめていた。
「大使のご令嬢でしてね、行方不明になっていたのですが、貴女の影の一部にその姿を感じ取ったものですから・・・。てっきり貴女も関わってしまっていたのかと疑ってしまいました。誠に申し訳ない」
足元の幼子の頭を撫でてから、榊原中佐は頭をしっかりと下げると陽子へと謝罪した。
「いいのよ、それよりも中佐、疑われたお詫びと言ってはなんだけれど、少し相談事があるの、良いかしら?」
「できることでしたら、なんなりと」
「私とこの子達を貴方の国へ連れて行ってくれないかしら?この子達は洗礼を受けていないのよ、それに私の眷属にしてしまったから、神のもとへも旅立つこともできない。ここで無理なら他国でしようと思っていたの」
「なるほど、でしたらちょうど良かった。私は本国に戻るように命令が出ておりますから、お連れしましょう。いかがですか?」
榊原中佐が足元の幼子と共にこちらへと近づいてくる、その姿が一歩一歩と近付いてくると、とたんに私は再びあの生娘のような感情が湧き上がり始めて、後ずさるようにして距離を取った。やがて壁際まで追い詰められると、顔を染めながらもその外すことのできない視線線をじっと見つめた。
「一本どうです?」
頷いてシガレットケースから彼が取り出した煙草を口に咥えさせて貰うと、榊原中佐はそっとマッチを擦り火を灯すとタバコの先へ火を点し、そして火のついたまま床へと放り投げた。何も撒かれていないはずの床を火が舐めるように階段を駆け上がり建物の四方へと走ってゆく。
「やはり綺麗だ」
「な、なにを・・・」
「貴方が私に惚れてくださったように、私もまた惚れたのですよ」
「え・・と・・それって・・・」
「恥ずかし限りです、まさか、この歳で異国で惚れるなど、どうやら、私の感情には狂いはなかったようだ」
「私を疑ったくせに」
「それと、これとは、別なのですよ。これから我が国までの道のりは長い、そこで説明させて頂きますよ」
私の腰に手を回した榊原中佐と共に火がまわり燃え始めた館の扉から外へと出ると、迎えに来ていた大使館付きの乗用車へと乗り込んで私たちは館を後にしたのだった。
あれからいく年月が過ぎた。
日本の地に降り立ってすぐ、私達は結婚式を挙げて、
「来世では良い時代を生きれますように願うばかりです」
最後の子を見送ると本堂から外へと先に出た私に、彼が青空を見つめながらそう言った。
「本当に・・・」
私もその言葉に深く頷いて和尚がしたように両手を合わせて再度冥福を祈った。
彼との暮らしはとても素晴らしいものばかりであった。私は容姿を日本人のように変え、あれからずっとこの国で過ごしている。陽子という名は彼がつけてくれたものだ。夜の淑女などと呼ばれていたのだから、今度は陽の下で生きればいいのではといい、彼は「陽子」と名付てくれた。以来、私は陽子と名乗っている。
私は魔術師だから長生きだが、彼はこの国の人間であったので寿命を全うし、最後の最後まで私を愛して亡くなった。
第二次世界大戦を生き抜き、戦後を過ごし、現代を生きている。時折、年齢を誤魔化しながらであるれど…。
彼からプレゼントされた左手にある指輪を外すことはなく、今も大切にしながら、しばらくは続くであろう長い命を生きている。
つい先日、旅立った子供達の生まれ変わりを街中で見かけた。幸せそうな笑顔を振りまいているその姿にほっと胸を撫で下ろし、すれ違いざま、生まれ変わってもなお残ってしまっていた黒い部分を取り除いておいたから、きっと大丈夫だろう。
ぼんやりと過去を思い出して、洗面台で歯ブラシを頬張って磨いているとバスルームの扉が開いて1人の男が姿を見せた。
「あ、起こしてしまった?」
「そんなことはないわ、三郎」
「今は、雄一だよ、いつまでも前の名前が抜けないね」
そう言って夜勤明けの眠そうな顔で、あの頃と変わらない引き締まった体をバスタオルで拭いていく彼を見ながら私は微笑む。
あの時と何ら変わることのない姿がそこにあった。目鼻がすっと通り、少し痩せこけた頬と、目の下にあるラインのようなクマがミステリアスさを醸し出している。再び、巡り巡ってようやく出会えたのだ。
歯磨きを一通り終えて一息ついたところで、私の体は後ろから抱きしめられた。
「もう朝よ?」
「さっきは時計に朝じゃないって言ったよね」
「ばか・・・」
私は懐かしい姿に戻り、余裕を見せるようにゆっくりと振り向いて、見つめ合い、ゆっくりと長い口付けを交わせば、頬が上気して染まっていき、感情が沸々と湧き上がってきて彼を精一杯の力で抱きしめてしまう。
世界は再び一目惚れの魂を持った男の元へと誘った。
私が生きている限り、そして彼が生まれ変わる限り、それは解けることのない、定められた術のように永遠に続いていく。
そこに理由などはいらない。これは必然となった運命なのだから。
一目に惚れて… 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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