38.移りゆく花と、あの瞬間をもう一度。【完】

  雨の続く森の中で、ミント髪の幼女はひとり目を覚ます。光は弱くとも、幸い彼女は赤子からここまで生き延びることができていた。背中を預けた揺り籠の石からは、冷ややかな感覚が伝わる。以前よりも随分と軽い体を起こした。気づけば体の上には、少しばかり大きすぎる衣服がふわりと畳まれている。

 その幼女はつたの絡まったデスクを目にするとゆっくりと立ち上がり、おぼつかない足取りでそこへと駆け寄る。久しい三歳の体はあまりに軽く、視点もずいぶんと低くなった。急に立ち止まったせいでふらつきそうになったが、デスクに手をついてなんとか持ちこたえた。

 幼女の視線は、花瓶の中で懸命に生きるトキバナに吸い寄せられる。その花は壁の割れ目から差し込む光の玉と水の粒の力を借り、着実に成長していた。生きながらえているトキバナが自分ひとりであることも知らずに。

 幼女の視線はデスクで開かれたままの花図鑑へと移る。開かれた本のページに大きく記されたのは、ある花の名前。それこそシオンが次の自分へと授けた、最後の名前だった。

 「……そうだった。私の名前はサザンカ。花言葉は、"永遠の愛"……!」




 チョウランの大空にかかった雲はいまだ消えることなく、そこを永遠と濡らし続ける。自然の歪みの元凶、すなわちは花畑に咲いたトキバナを絶ってもなお、その雨は容赦なく降り続いた。

 それでもサザンカは残された一本の蕾と共に、懸命に生きる。お気に入りだった大きな服の底を引きずりながら歩くと、小さな棚に置かれた鞄から、鮮やかな花畑を閉じ込めたような瓶を取り出した。幼い肉体は、光の少ない環境での消耗が一層激しい。サザンカの命は、瓶の中の果物たちへと託された。

 残された一本のトキバナと共に育つ、ささやかな毎日が過ぎてゆく。雨の日は、トキバナと一緒に小屋でじっと時を過ごした。嵐の日は、端が割れた窓を必死に塞ぎトキバナを守った。雨の止んだ曇りの日は、トキバナの花瓶を持ち外を歩くこともあった。太陽の光が差し込む晴れの日が訪れることはなかったが、それでも二人の花は慎ましく生きた。二人の人間は逞しく育った。




 消耗の激しい日に少しずつ食べ進めた瓶の中身が、もう底をつき始めた日。目を覚ましたサザンカは、強い光を宿したトキバナに目を奪われる。

 ただ待ち続ける身は辛かった。もう泣いてしまいそうだった。とうとうその日は訪れたのだ。十四歳になったサザンカはトキバナの花瓶を抱えて扉を開くと、小屋の外へ飛び出した。

 そこに広がったていたのは、もう見ることもないはずだった奇跡の快晴。まるで二人を祝福するような、満点の青空。それは今まで数えきれぬほど見上げてきた空の中で、最も美しかった。

 カラフルな花たちが彩る絨毯は、土が露出した荒れ地へと変貌していた。ちらほらと雑草が根付き始めている。そこに広がっていたはずの秘境は、どこにでもある普遍の大地へと移り変わろうとしていた。遠くに見える大木の葉は、神秘的なエメラルドグリーンから健康的な緑色へ染め直す。見上げるほどだった背丈も、徐々に縮小を始めていた。浄化の雨は、この森を普通の森へと還したのだった。

 急激にその装いを変えてしまった故郷でも、サザンカの故郷を想う愛は変わらない。それはただ長い時間をここで過ごしたからという理由ではない。あの日少女は誓ったのだ、故郷を捨てたはずの自分を受け入れてくれるならば、どれだけ変わり果てた故郷でも愛し続けようと。

 そのとき、トキバナの光はまた一層激しさを増し始める。ここで途方も無い時間を過ごしてきたサザンカであっても、こうしてトキバナの輪廻を目撃するのは初めてのことだった。少しあたふたしたが、一度深呼吸して落ち着くと、地面にそっと花瓶を置いてそこから離れた。

 大きく育った蕾は、ゆっくりと花弁を広げてゆく。たっぷりと光を放ちながら、ゆっくり、ゆっくりと。ついに花弁が大きく優艶に広がれば、その中心からはふわりと光の玉が舞い出た。それは花瓶の少し手前でぽろりとほどけて、光の粒子を散らしながら膨らみ始める。そこからはただ大きく、大きく育った。

 サザンカは駆け出した。その光を纏ったものへ、ただ真っ直ぐと。高鳴る鼓動を感じながらも、少女の瞳はそれだけを捉えた。

 サザンカは光を抱きかかえるように、ただ優しく手を回す。ほのかな温かさと、柔らかい肌に触れるような抱き心地。もう堪えきれない。腕の中に居るのは、彼女の想い人。

 光がほどければ、そこには目を瞑ったままのグラジオが現れた。まだ体の小さい、幼き日のグラジオだった。傷だらけの体と、血の流れ続ける右足。まるで泉へ落ちたあの刹那を切り抜いたような、そんな彼の姿がそこにあった。華暦四一二年から、四四三年へ。時は確かに、今こうして届けられた。

 「グラジオ……グラジオ……!!」

サザンカは、ただ感情のままに語りかける。深い眠りから目を覚ますように、少年はゆっくりと瞼を開いた。そのとき彼の瞳いっぱいに映るのは、かつて愛したミント髪の少女。




 ――少年へと流れ込む、記憶の波。十五歳の少年が背負うのは、彼が確かに生きたその先十五年分の記憶たち。イベリスを失った彼の、シオンと共に生きた記憶が、ここで精算されてゆく。

 「私をもう一度……誘拐してくれますか――!」

 「シオン。私はシオン、だよ」

 「――命も愛も永遠なんてない。愛することを始めるということは、愛することの終わりを覚悟するということ――」

 「だから私は後悔しない。その儚い一瞬を記憶に刻むために、捨てられないものなんて無い」

 「あ、あの……私は食べるのがあまり得意じゃなくて――」

 「ねえ、あれが"船"というものなの?」

 「その、"でーと"っていうんだよね。何だか、少し恥ずかしいかも。えへへ」

 「グラジオ! 私は、あなたに救われた――!」

 



 「あなたを……あなたを愛しているの!」




 ――全て、思い出した。目の前の少女と共に生きた記憶が、確かにそこにあった。少年の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちる。

 「君は……君は……!!」

サザンカはぎゅっとグラジオを抱きしめた。彼女もまた、同じ涙を零しながら。

 「おかえりなさい、グラジオ。ずっと、ずっとずっと待ってたよ……!」

サザンカは震える声を抑えて、優しく笑って語りかける。

 「忘れてない、から。大人になったグラジオが、私に言ってくれたこと。もし叶うのなら、あの瞬間をもう一度、って」

 そのあまりに清く真っ直ぐな愛に、少年はまた涙した。言葉を返す余裕もないほど、胸の奥に溜まり続けた感情が滝のように流れ出る。

 むせび泣く少年に、少女はそっと呟いた。

 「……ねえ、聞かないの?」

グラジオはシオンと潤った瞳を合わせる。彼には彼女が何を望んでいたのか、すぐに分かった。二人は微笑む。

 涙を拭ったグラジオは、笑顔で尋ねた。

 「……君の名前を、教えてくれる?」




 「……私はサザンカ。サザンカだよ」





○サザンカ

科・属名:ツバキ科ツバキ属

学名:Camellia sasanqua

和名:山茶花(サザンカ)

英名:Sasanqua

原産地:日本

花言葉:全般「困難に打ち克つ」「ひたむきさ」

    赤「謙譲」「あなたがもっとも美しい」

    白「愛嬌」「あなたは私の愛を退ける」

    ピンク「永遠の愛」

※引用『花言葉-由来』https://hananokotoba.com/

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巡り、廻りて、花愛でり。 まきばのあさ。 @makibanoasa12

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