37.シオン=『君を忘れない』
無情に降り注ぐ雨を蓄えきれずに緩んでしまった大地から、狭くも心地良い温かな土へ。トキバナを育むことのできる花畑固有の土を、小屋の中に残されていた脆い花瓶へと詰めて乾かせば、その花は生きることのできる環境をようやく手にした。
シオンと彼女の愛する花の命は、花畑の中央に建つ小さな小屋に託された。それは皮肉にも、輪廻の血族を称えるという薄っぺらな名目で建立されたもの。手入れなどされているはずもない。
材木が欠けた壁面からは、少しの雨水と共に時折光の玉が忍び入る。しかしその光はシオンに引き寄せられ、彼女へ僅かながらの活力を与えた。そしてその恩恵は、隅に置かれた一本のトキバナの命をも繋ぐ。
彼らはそこが旅の終着点であることにも気づかず、彷徨いの過程で小屋へと迷い込む。もしも小屋の外に広がる花畑の大地に触れることができたなら、彼らもまた蕾となれる。そして彼らはいずれ開花し、宿った魂を数年後に輪廻させるのだ。それでも彼らがそれに気づくことはない。トキバナの蕾となることのできる光の玉は、運命だけが知っているのだから。
トキバナを小屋の中へ移してから数日が経った。小雨が降る夜明け頃。
雨は連日止んでいない。ドライフルーツと僅かな光がありながらも、ついにシオンは衰弱し始めていた。少女は
泥を落とした服は、昨晩になってようやく乾いた。一緒に洗った帽子はひどく傷んでいたが、洗えば随分と綺麗になった。
壁の隙間から差し込むかすかな太陽を感じて、ふとシオンは目覚めた。久しぶりの光に胸は高鳴り、思わず小屋の扉を開く。
曇り空はいまだ雫を振り落とし続ける。それでも雲の合間を裂くようにして顔を出す太陽は、確かに大地を照らしていた。この地で途方も無いほど眺めてきた太陽に、これほどまで心震わされたのは初めてだろう。
雲一つない快晴とは程遠くとも、少女の瞳はこの黎明の晴れ模様がある日の朝と重なった。それはグラジオに手を引かれて森へと逃げ、過去を語り合い、姫のように抱えられて。そしてイベリスは、恐怖せずに死んでいった。あの日の死だけは怖くなかった。だからイベリスは笑顔で逝った。
シオンは決意する。シオンの願いはイベリスの願い。そしてそれはきっと、彼の願いでもある。 残された道は一つだった。少女に迫られた選択は、己もまた輪廻をすること。彼の還る十五年後に、あの朝と同じ年齢で出会うために。
それでもシオンには、輪廻を前になすべきことがあった。彼女は人間なのだ。人間には、名前が必要だろう。
今まで与えられ続けてきた名前を、己へ与える機会が訪れた。そのとき彼女が頼りにしたもの、それはグラジオの花図鑑。目にしたときから、花言葉というものにずっと惹かれていた。次の自分に相応しい、そんな名前を本に尋ねる。膨大な量の花を刻んだ書から、最も素敵な名前を選びたかった。
「……シオン。花言葉は、"追憶"。"追想"。"遠方にいる君を想う"。そして、"君を忘れない"」
その少女は噛みしめるように呟いた。そのページを少しだけ遡り、あるページを開いたまま手を止める。
「イベリスから、シオンへ。そしてシオンから――」
夜になると、また雨足が強まり始めた。次第に風も吹き始め、屋根を叩く音はまた一層と大きくなってゆく。
デスクに置かれたトキバナにはまた光の玉が集った。電気もランプも無いこの小屋では、これがたったひとつの照明になる。
そのそばには、洗濯を終えたグラジオの帽子。そしてさらにその横には、あるページを開いたまま放られた花図鑑が置かれた。
デスクの下には、三本足の椅子が力なく倒れこむ。膝下くらいの小さな三段の棚は、下の板が腐り割れてしまっていた。そんな棚の上に置かれた鞄は、口をぽかりと開き続ける。鞄の中には、ドライフルーツの詰められた瓶。中身は着実に減っている。
シオンは割れかけの小さな窓から外の様子を窺った。強まった雨は、無慈悲に外のトキバナを打ち続ける。もうまもなくそのトキバナたちが腐り落ちてゆくことは、少女の目でなくとも明らかだ。
「……きっとこれが、最後の輪廻かな」
シオンは最後に花畑の情景を目に焼き付ける。きっともうこの景色を見ることはないだろうから。
少女は服を脱ぬぐと、それを揺り籠のような石にふわりとかけた。次の自分への贈り物だった。
小屋の扉の柄を握った。立て付けが悪いせいで、それはひどく重たい。
それでも必死にそこをこじ開ければ、たちまち嵐の夜と繋がった。強風で木々が揺さぶられる音はそこはかとなく不気味だが、彼女の次の行動は決まっている。シオンは窓の側からガラス片を拾い上げると、そのまま荒れた花畑へ飛び出した。
滝のような雨がいまだ降り注ぐ。雨の奏でるものとは思えないような、恐怖を覚える轟音が鳴り響いた。ミント色の髪が濡れて滲んでゆくなか、意を決してシオンは呟いた。
「怖く、ないから。今、いくよ」
少女は手にしたガラス片を強く握り直すと、掌からまた血が滲んだ。ひとつ呼吸をして、死にゆくトキバナを目にする。
「さようなら」
そのガラス片は少しずつ高いところへ運ばれると、彼女の細い頸を引き裂いた。
たちまち頸を駆け巡る灼熱感。熱くて、でも冷たいような、不可思議な感覚。少しずつ意識が朦朧として、すぐに地面へと堕ちた。それでもなぜか怖くない。それはシオンが、生を謳歌できたから。グラジオ歩んだ時間は短くとも、シオンの人生は彼女の長い命の中、確かに最も幸せなものだった。ついに意識は落ちると、少女の亡骸は血と雨で染まってゆく。
月明かりもない暗黒の中、その肉体はぼんやりとした光を纏い始めた。徐々に全身を包んでゆく光はやがて少女を飲み込み、小さな光の粒子となって空に散り始める。それは彼女の、最後の輪廻の始まりだった。
○シオン
科・属名:キク科シオン属(アスター属)
学名:Aster tataricus
和名:紫苑(シオン)
別名:鬼の醜草(オニノシコグサ)、十五夜草(ジュウゴヤソウ)
英名:Tatarian aster, Aster tataricus
原産地:日本、朝鮮半島、中国、シベリア
花言葉:全般「追憶」「君を忘れない」「遠方にある人を思う」
英語「patience(忍耐)」「daintiness(優美、繊細)」「symbol of love(愛の象徴)」
※引用『花言葉-由来』https://hananokotoba.com/
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