36."愛すること"を、もう一度。
シオンは帽子を抱えると、傘を閉じ鞄を抱えて握り駆け出した。彼女の向かう先は、『時届きの花畑』。もしもそこにグラジオを宿した光の玉が届いてたならば。その僅かな希望に
輪廻、それは古い命に刻まれた記憶を大切に抱えたまま、新たな命をもって再現させる神秘。それを見守る輪廻の血族は、ただ輪廻を繰り返す特異な一族の名ではない。トキバナによって届けられた蘇りし者たちを見届けるべく、自らも輪廻し続けるという運命に囚われた一族だった。始まりの秘境に至った少女は、自身に植え付けられていた本当の宿命をようやく思い出したのだ。
ふと頭をよぎる声。その優しい声色は、グラジオの遺した最期の言葉。
同じ背丈で。同じ年齢で。もしも叶うのなら、やり直したい。あの瞬間をもう一度。グラジオは死に瀕して、確かにそう言った。
生きた時間に十五年もの差があろうと、愛する資格はそこにある。いや、愛することに資格など必要ないのだ。
しかしそれでも、彼は気づけなかった。だから彼は去ったのだ。本当は心の底から愛していたのに。
シオンは奔走した。泥にまみれながらも、ただひたすらに足を前へ伸ばす。どんなに小さな希望だろうと、すべては彼の願いを叶えるために。
日が沈んでから、もう相当な時間が経った。息を切らしたシオンが花畑へ至ったとき、そこはもう彼女の知る花畑ではなかった。
皆が空を仰いでいた活気ある以前の景色は失われた。連日の大雨に晒され下を向く花が点在するその光景はまさに秘境が終焉へと向かっていることを刻々と示す。この世界に偶然生まれた、秘境という名の特異点は、浄化の雨によってあるべき普通の姿へ還ってゆく。秘境も、時を運ぶ花たちも、そしてあるいは輪廻の血族も。全ては自然の歪みから偶然に生まれた産物。そして自然の歪みは自然によって淘汰され、あるべき平穏な自然へと回帰する。その摩訶不思議な森はあるべき普通の森の姿に向かうべく、着実なる歩みを進めていた。
シオンは弱々しく咲く花たちのもとへと駆けつける。荒い息を気にも留めず、少女は手から荷物を放り出した。鞄と傘は重力のままにどさりと落下する。苔むした帽子がそこへふわりと重なった。
「……絶対……絶対に見つけるから……!」
シオンはまだ咲いていないトキバナの蕾へ駆け寄ると、そこに両手を重ねた。輪廻の血族には、花と対話する力がある。そしてトキバナは、泉に触れた者の魂を宿しながら開花と共に輪廻を呼ぶ。もしグラジオの蕾がいるのならば、そのトキバナは花咲く日を待つ蕾の姿であるはずだった。だから彼女は、ひたすらに蕾だけを探した。
「……ちがう。君じゃない」
流れ込んできたのは、人間とは違う別の生き物の記憶。シオンは鮮やかな花の中からまた別の蕾を見つけ出すと、迷うことなくそこに触れた。
「ちがう……」
「きっと……いるはずなの……!」
そしてまた、別の蕾へ。そこに彼の宿るトキバナがいることだけを信じて。
雨がまた強まり始める。叩きつけるような水滴が、森を無機質な響きで満たした。
「ちがう……あなたじゃない」
「ちがうの……!!」
シオンはただ探し続けた。花と花の隙間から蕾を見つけ出すと、その全てと対話してゆく。愛する人の記憶に辿り着くことだけを信じて。
――その記憶は、見知らぬ天井から始まった。こちらを覗き込むようにしてぼんやりと映り込んでくるのは、涙を流すくるくるとうねった髪の男性。茶髪の女性は、その彼の様子を見て幸せそうに笑っていた。
――その記憶は、たくさん子供たちが集まった一室。そのとき突如として、何かに突き飛ばされたような強烈な痛みを感じる。
「なんだよそれ! 男のくせに、女みたいなことしやがって!!」
その嘲る声だけは、記憶に深々と刻まれていた。そしてその声に呼応するように、笑い声がどっと湧き出す。悔しさか、恥ずかしさか。幼い頃に植え付けられた、虐げられるという強烈な経験。
――その記憶は、夜の街。底知れぬ孤独を感じていたとき、見知らぬ男がこちらへと手を差し伸べる。
「そうか、花が好きなのか。ならお前も来てみるか? 誰も見たことのない花、一緒に見つけようじゃねえの。俺の調査隊の一員としてな」
その手を握った。男の大きく分厚い手からは、温かさが脈々と流れる。
――その記憶は、エメラルドグリーンの森の中。ある夜。二階の窓から夜風を浴びるミント色の髪の少女に抱いた、初めての感情。森を抜け出そうと、少女の手を取ったときに感じた体温。共に過去を語った思い出。耳の奥で何度も反響する、あの可憐な声色。絶望を前に、跪いて涙を流す少女。そして束の間、その少女の息絶えた壮絶な姿。
――その記憶は、とある一軒家の風景。雨の日だった。全身に感じる疲労感。急激に大きく重たくなった筋骨隆々の体は、動かすのも一苦労だった。床へ倒れ込むように寝転ぶ。荒い息をどうにか整えようと試みた。それは何より過酷な記憶だった。
――その記憶は、再びミント髪の少女の記憶を描く。共に愛馬へと跨がり、長年の望みを果たした幸福感。しかし同時に訪れる迷い。年をとりすぎた。この少女を愛してはならない。
「……信じてた、から……!!」
びしょ濡れの少女は森の中でひとり晴れた。
小さな蕾に込められた、大きな記憶。そこに宿った魂は、紛れもない彼女の想い人。気がつけば空は少しずつ明るくなっていた。曇り空の黎明が訪れる。
下を向く蕾をシオンは両手でそっと包み込んだ。その蕾は、これからの全てを教えてくれた。
「……そう。あなたが咲くのは今から一五年後、なのね」
シオンのすることは決まっていた。彼女はもう誓ったのだ。次は、たった一本の花を愛そうと。
「私は、あなたの願いを叶えてみせる。次は、私があなたを救うから」
そして少女の"愛すること"は始まった。カタチを変えても、想いを変えずに。
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