35.与えられた宿命の、続きの物語を。
シオンは道無き道を駆け降りる。人の視線を浴びない為だけに被り始めた帽子は、彼女にとってかけがえのない物へと変わっていた。
そして気が付けばそこは、森の成長を長きに渡り見届けてきたシオンでさえも、まだ足を踏み入れたことのない森の深淵。もはや彼女でさえも土地勘を掴めない。それでも彼女は崖の奥底の方角だけを見失わないように、ただ闇雲に下り坂を選んだ。ただ下へ、崖の麓だけを目指して。
曇り空の暗闇も相まり、ふとしたときにシオンは泥濘んだ地面へ足下を掬われた。突然の出来事にそのまま体勢を崩し、彼女はそのまま斜面を勢いよく転げ落ちる。大木に打ち付けられて、ようやくその勢いは止まった。
膝を着いて体勢を正すと、頬に跳ねた泥を拭う。一歩一歩慎重に進んでいたはずの下り坂を、一気に転げ落ちていた。辺りの傾斜も小さくなっていることからも、どうやら相当低いところまで来たらしい。
汚れた靴も服も気にする暇は無い。シオンは遠くに転がる鞄と傘を拾い上げると、いまだ続く鈍い痛みに耐えて、また帽子だけを求めて歩みを始めた。
視界のずっと先の方で苔塗れの岩肌が映ったのは、辺りが更に暗くなり始めた頃だった。小雨もまた降り始め、雲の上の太陽も沈みゆく。その視界の悪さは、きっと誰でも恐怖を感じる程だろう。
それでもそこを臆せず進んだ少女はついに報われた。彼女が目にした岩肌は、帽子の落ちた辺りで間違いない。
鼓動が高まるのと共に、また自然と足取りが軽くなる。彼女はひたすらにその岩肌へと近づいた。
しかしながら、その目的地を前にしてシオンの足は止まる。それは彼女の目指した岩肌よりも手前に、巨大な鏡の如き泉があったから。
かなり深い底がはっきりと見えるくらい透き通った泉は無数の光の玉に照らされ神々しさをまとう。そこに幾多の雨水が混ざろうとも、寸分の濁りさえ見受けられなかった。
息を呑むほど美しい泉が、崖に寄り添うようにしてひっそりと生き続ける。それは森と共に生きてきた少女にも、初めて映った光景だった。
そしてシオンは思い出した。崖から突き落とされたとき、気付けば体が湖に浮かんでいた。グラジオはそう語ったのだ。
ふと視線を上へと向ける。エメラルドグリーンの林冠が邪魔をして、崖の頂上は見えない。それでも彼女には分かった。自身の前に広がる秘匿の泉こそ、グラジオを救った奇跡の泉なのだ。
その新たな発見に少し脱線してしまったが、シオンはようやく本題を思い出す。そういえば彼女は、帽子を探すためにここへ来たのだ。
僅かな希望を抱いて、すかさず辺りを見渡した。しかしながら、そこに見慣れた帽子は見当たらない。冷静になってみて気付いた。やはり帽子は、大木の高い所で枝にでも引っ掛かってしまっているのだろう。
足元を探そうと、きっと帽子には巡り会えない。シオンはまた空を見上げた。それでもやはり帽子は映らない。林冠の上に乗っかってしまったのだろうか。彼女は為す術無くして、また視線を下へと戻した。
しかし運命とは数奇なもので、シオンは本来の捜し物よりも珍妙な物を目にする。彼女の視線を奪ったのは、泉の隅っこで浮かぶ汚れた帽子。それは泥に塗れて苔に包まれ、相当の年季を凌いだ痕跡が色濃く残る。彼女の探していた帽子とは、あまりにもかけ離れた様相だった。
シオンはその帽子に、どことない面影を感じた。鞄と傘をその場に置くと、泉の縁を沿うように進みながら帽子へと近付く。露をまとって湿った草に膝を置くと、そこから目一杯に腕を伸ばし、水の上を漂う帽子を何とか掴んだ。
引き揚げられた帽子からは、ぽたぽたと水滴が零れる。手に取ってみて、シオンは確信した。その腕に抱かれた一回り小さな帽子は、幼き日のグラジオが被っていた物。
また欲が出てしまった。どうしても彼の面影を感じたい。だからシオンは、すぐ側で必死に生きる花たちに頼る。彼女には、花の記憶を辿る力がある。
「……あなたなら、知ってるよね。お願い」
シオンは帽子を膝に置くと、近くの花に両手を添えた。目を閉じると、そこに広がるのはその花が見てきた景色。真っ赤なペチュニアの花は、宿根草として歩み続ける長い時間を彼女へと届けた。
時は一六年前に遡る。夜明けの刻。快晴の空の元、そこにはいつも通り心地良い風が吹き込んでいた。ゆらゆらと体を動かす草木とともに、泉の
しかしその日常は、突如として崩れ去った。静かな
透き通った水は少年の足から滲み出る血と混ざり、少しずつ透明を失った。荒立った波がようやく収まってきた頃、ようやく少年は水面へ浮かび上がり、もがきながら水の外を目指す。水面から跳ねた光の玉が、ふわりと宙へ飛び立ったことに気付かずに。
相変わらず激しく痛む足を庇いながらも、グラジオはどうにか岸に手を付いた。被っていたはずの帽子の行方を気にする余裕も無い程、必死になって体を水から引き揚げる。そして何とか水の監獄を脱出した彼は、近くの大木に背中を委ねて座り込んだ。
呼吸を整えると、ようやくやるべき事が見えてくる。グラジオは頑丈な厚手の上着を脱ぐと、薄い生地の肌着を強引に引き裂き、それで足の傷口をきつく縛り上げた。肌着はすぐに血を吸って滲ませるが、次第にそこから滴る血の量は減り始める。
グラジオは崖の上へ視線を向けた。そこに映るのは、エメラルドグリーンの林冠ばかり。
「……どうして……どうして……!」
いくら拳を草原に叩きつけようと、もうイベリスは戻らない。少年は底知れぬ喪失感に襲われた。少年には、あまりに無力だった。
勢い余って潰してしまった草花から拳をすっと離せば、瞳からこぼれ落ちる水だけがそこへ滴る。
そして少年は思った。その内なる激情は、自然と声色に怨嗟を宿して発せられる。
「……もし僕に、力があれば。もし僕が……大人だったなら」
ただ貪欲に力を欲した。囚われた少女を救い出す為に捧げた一五年は、ここから始まったのだった。
グラジオは大木の手を借りて何とか立ち上がる。一歩を歩み出してみれば、自分にまだ生きる希望があることを知った。まだ足は何とか動く。もう一度ここへ来て少女を救い出す為に、猶予があることを悟った。
「……イベリス。一五年だけ待っていて欲しい。僕はその時間を賭けて、次こそ君を救ってみせる。あの村から、もう一度」
そして少年は、不器用ながらも歩みを始めた。闇雲ながらも、チョウランの外を目指して。少女を救うその日だけを目指して。あらゆる力を得るために、いかなる己の犠牲を厭わないと決めた。独りぼっちで泉の
その泉はまた静まり返る。泉の上からふわりと飛び出した光の玉が空を旅していることに、少年が気付くことはなかった。
――花の記憶を辿ったその瞬間、シオンの脳裏には、また何か別の記憶が駆け巡る。それは輪廻の血族に与えられた宿命の、更なる続きの物語。グラジオが触れた泉から飛び出した水の粒と、光の玉。花の記憶からその誕生を目撃した彼女は、ついに全てを思い出した。
走馬灯のように駆け巡るのは、時届きの花畑の風景。光の玉がふわりと訪れ、その大地で眠る。水の粒がゆらゆらと訪れると、それは大地で眠る光の玉へ潤いを届けた。やがて光の玉は芽を出し、色とりどりに花を咲かせる。トキバナと呼ばれるその花は、時を届ける花。
名も無きミント髪の少女の友達は、花畑へどこからともなく訪れる生き物たち。鳥も兎も、猫であろうとも、彼らは颯爽と現れてその花畑に新たな色彩を与えた。では、彼らはどこから現れたのか。現れたのではない、届けられたのだ。彼らはトキバナによって届けられた。長い長い時を超えて。
その泉の名は時送りの泉。すなわち、トキバナの蕾の出発点。光の玉の旅の、始まりの場所。彼らは長い時間をかけて、時届きの花畑を目指す。泉に触れた者の魂を身に宿し、それをもう一度輪廻させるために。そこは他でもない、始まりの秘境だった。
○ペチュニア
科・属名:ナス科ペチュニア属
学名:Petunia x hybrida
和名:衝羽根朝顔(ツクバネアサガオ)
別名:ペチュニア、ペツニア
英名:Petunia
原産地:南アメリカ
花言葉:全般「あなたと一緒なら心がやわらぐ」「心のやすらぎ」
英語「your presence soothes me(あなたと一緒なら心がやわらぐ)」
※引用『花言葉-由来』https://hananokotoba.com/
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます