34.決別したはずだった

 シオンはただ歩き続ける。彼女が目指したのは一度捨てたはずの住処、ヒペリカ村だった。

 土地勘はあろうとも、徒歩となれば目的地までは相当の距離がある。泥濘んだ土は靴へまとわり付き、本来の軽快な足取りを奪い去った。無論空はいまだ泣き続ける。それでもシオンには、そこを目指す理由があった。




 足音さえ掻き消されてしまいそうな雨の中を進んで、ついにシオンの瞳が村の門を視界に捉えたのは、森に入って実に数時間後のことだった。空が頑なに太陽を隠し続けるせいで詳しい時間は分からないが、恐らくは昼過ぎ頃だろうか。

 「……ただいま」

 いつもは厳重に閉ざされ、更には男衆による見張りが敷かれていたはずの正門は、開いたまま放置されている。鐘が吊された物見台も露を纏ったままひっそりと佇んでいた。心のどこかで密かに希望を抱いていたが、改めて実感させられる。やはりもう村には、誰一人として残っていないのだ。

 シオンは正門をゆっくりと潜った。そのとき耐えかね、ついに門の柱へと手を付く。光の弱い中を長時間歩き続け、もはや体力は限界だった。それでも彼女は残された僅かな体力を振り絞り、彼女が長い時間を過ごした一軒の小さな家へと歩を進める。




 幸いにも、扉の鍵は開いたままだった。雨に晒されてか、扉の金具は錆びて赤銅色に染まる。少しだけ重たくなった扉は、非力な少女の力で嫌な音を立てながら開いた。

 当然ながら家の中は真っ暗だった。至る所にある滲んだ汚れは雨漏れの痕だろう。窓の縁は長い時間降り続ける雨に耐えきれず、腐りかけて変色してしまっていた。

 テーブルの上には、中身が残されたままのポッド。その側には、瓶に密封されたままのドライフルーツが放られていた。まるでほんの昨日まで人が住んでいたのでは疑ってしまうほど、残された生活の痕跡はまだまだ色濃い。

 シオンはテーブルに歩み寄ると、真っ直ぐに瓶へ手を伸ばした。瓶に詰められたドライフルーツが長持ちすることを知っていた彼女は、蓋を外してそれを少しだけ口にする。グラジオと共に克服した食事が、ここで少女の命を繋いだ。

 力むことができなくなりつつあった体は、少しだけ元気を取り戻した。シオンは軽くなった気がする足取りで、ついに二階へ向かう。見慣れた少しだけ急な階段は雨のせいで以前よりもギシギシと軋むが、それでも彼女は一歩を踏み出した。

 最後の一段を上り終えると、そこには見慣れすぎた窓が映る。その窓は雨を必死に堪え、きっと懸命に少女の帰りを待っていた。

 窓の外には相変わらず降り注ぐ雨が映る。そのキャンバスに描かれた景色は、彼女が今まで見てきた中で最も暗い色だった。

 ふと視線を逸らすと、窓の側に置かれた小さな戸棚へ自然と意識が向いた。戸棚の上にはマグカップ程の小さな花瓶。

 そういえばここには、スミレの花が植えられていた。イベリスの記憶がシオンへと語り掛ける。それと時を同じくして、この花瓶は彼女のかつての母親役であったアイサの物であることを思い出した。アイサは本来なら花畑で生を全うする輪廻の血族を思い、ささやかながら花瓶に花を飾り続けてくれたのだ。

 そしてシオンは気づいてしまった。彼女は着実に一歩ずつ、人間らしい人間へと変化していた。花だけを愛するはずだった自分は、最も近くにあった一輪のスミレすら今の今まで忘れ去っていて、窓の外に見える人間たちの世界へ惹かれていったのだから。

 人間として人間を愛する為に、少女は本当の人間になることを選んだ。しかし愛した人間はもう、死んだのだ。愛するということは、愛することの終わりを覚悟するということ。

 そんなときリナリアは教えてくれた。愛したものとの決別が、人間を成長させる。だから彼女は、無意識に花瓶を手に取った。それはすなわち、グラジオとの決別。

 「……それなら、私は。私はもう一度、花を愛したい」

 この花瓶に収めることのできる、たった一本の花でいい。崩れゆくチョウランの中で、この花だけは愛してみせよう。少女は誓った。




 シオンは生きる為にやむなくドライフルーツだけを拝借すると、瓶で少しだけ重くなった鞄を抱え、その懐かしき家を後にする。扉から外に出ると、見飽きてしまった雨模様は依然と続く。彼女は永遠の雨を受け入れるように、そっと傘を差した。

 「……帰ろう。きっと花たちは、私を待っている」

 少女が目指す最後の目的地は、時届きの花畑。彼女が最も長い時を過ごした、紛れもない故郷。

 意気込んだのも束の間、玄関に出て傘を差したシオンの視線は、ある方向へと引っ張られた。少女の瞳に映ったのは、大木がひしめき合う森と草原帯である村の境界線。妙に印象深いのは、今でも変わらない。あの日手を引かれた記憶が鮮明に蘇る。そして気付いたときには、吸い込まれるようにそちらへと歩みを進めていた。

 もう彼とは決別したのだと、ひたすらに心で唱える。それでもあと一歩だけ、もう残っていないであろう彼の面影をどうしても探したい。あと一歩、もう一歩だけ。重たい足取りでも、シオンは着実に前へと進んだ。

 そしてあるとき、心に絡んだ糸はぷつりと切れる。

 「最後。本当の本当に最後、だから。だから、もう少しだけ! ほんの少しだけ――!!」

 花に誓ったはずの決意は脆弱に崩れ去る。薄情で身勝手だと糾弾されようと、それが本心なのだから抗いようもない。

 少女はすっと軽くなった足取りを弾ませた。それはまるで、少年から強引に腕を引かれるように。これが最後なのだと、本当に最後なのだと言い聞かせながら。



 

 雨足は少しばかり大人しくなった。シオンは少しの雨を気にも留めず傘を閉じる。そうして傘によって塞がれていた視界が開けたとき、彼女はまた心揺さぶられた。

 きっと村人から見れば、広い大森林の中というのはどこも似通った景色なのだろう。それでもシオンには、あの日手を引かれるままに流れていった景色が、どこか脚色されて鮮明に映る。誰もが方角を見失ってしまいそうな道無き道でも、シオンには見えた。あの日のイベリスがグラジオが歩んだ、たった一本の軌跡が。

 そしてシオンは、そこをただ辿り続ける。夜の森を走って弱ってしまったとき、一度だけ腰を下ろした大木の麓。男衆の弓矢に襲われたとき、必死になって逃げ惑った木々の狭間。そしてついには、一帯だけ木々が禿げた小さな草原へと辿り着いた。

 以前よりもほんの少しだけ草木が伸びただろうか。膝くらいまで背を伸ばした草の露を払うこともせず、シオンは真っ直ぐにその草原を突き進む。

 遠くで折り重なって支え合う倒木は、あの日のグラジオとイベリスを矢から守ってくれた。それでも一五年というのはあまりに長い。倒木はあのときよりも朽ち果てて、弱々しく変貌していた。

 草原を抜けると、向かい側にはまたも森林が繋がる。そしてそこは、イベリスという一つの人生が終わった場所。頸を落とされて倒れ込んだ場所は、心無しかまだ血が滲んで見える。

 そしてその終焉の地すらも越えれば、切り立った崖がシオンの行く手を阻んだ。恐る恐るとそこを覗き降ろせば、足元よりずっと下方のエメラルドグリーンが雨に濡れ、少しだけくすんでいるのが見える。

 そのとき大人になったグラジオの声がふと想起された。街中の花溢れる公園で彼が自身の過去を語ったとき、彼は崖から突き落とされながらも奇跡的に生きながらえたことを語っていた。

 次の瞬間、シオンの背後からは涼しい風が鋭く吹き込む。崖から数歩程離れていたシオンは墜落を免れたが、彼女の頭の帽子だけが崖の下へぽろりと零れ落ちた。

 「……あ、待って!」

 帽子はそのままふわりと落ちていく。そしてついそれは、くすんだエメラルドグリーンの絨毯へと飲み込まれた。

 街で暮らし始めてから身に着け続けたその帽子は、シオンにとってグラジオの面影そのものだった。きっと崖の下で雄大に広がる林冠に引っ掛かってしまっているのだろうが、シオンにはそんなことを考える余裕など無かった。彼女は必死に帽子を目指し、その崖を引き返す。崖下に繋がる下り坂を探すべく、鼓動と共に足取りが速まった。






○スミレ

科・属名:スミレ科スミレ属

学名:Viola mandshurica

和名:菫(スミレ)

別名:相撲取草(スモウトリクサ)

英名:Violet

原産地:全世界の温帯

花言葉:全般「謙虚」「誠実」「小さな幸せ」

    紫「貞節」「愛」

    白「あどけない恋」「無邪気な恋」「純潔」

    黄「田園の幸福」「つつましい喜び」

    英語「modesty(謙虚)」「faithfulness(誠実)」


※引用『花言葉-由来』https://hananokotoba.com/

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