33.帰郷

 出発の日は、早朝からあいにくの曇り空だった。骨組みに布を張っただけの簡素な馬車は、草原に伸びる細い一本道を進む。心地良い風はシオンの深く被った帽子をなびかせた。彼女はキキョウの馬車に揺られ、故郷を目指す。

 車輪が固い地面と擦れる音だけが響く中、手綱を握るキキョウはふと背後へ尋ねた。

 「……本当に良かったのか。たったそれだけの荷物で帰るなんてよ」

 「はい。いいんです、これで」

シオンはたった一冊の花図鑑だけを抱え、馬車の後方へ腰を下ろす。心の拠り所であったはずの置き手紙は、街にあるグラジオの家に残してきてしまった。テーブルの花瓶に飾った花も、よく陽の当たる庭の土に場所を移し別れを告げた。

 「……本気でチョウランに帰るのか。俺はてっきり、少し森を見てまた街に戻るもんだと思ってたんだが」

シオンは言葉を返さなかった。その沈黙は肯定を意味する。

 「今やチョウランは、数ヶ月雨が降り続く異常な土地だ。ヒペリカ村の古典的な生活様式じゃ、もう村人なんて残っちゃいない。お前はまたひとりぼっちになるんだぞ?」

 「……もう決めたのです。私は故郷で生きていきます。私は人間ですが、人間には無いとある使命を抱えています。だから故郷で、その使命を果たすために生きていきます。彼の願いの通りに。自由に、強く。止まない雨が降ろうと、ひとりぼっちだろうと関係ない。故郷がどんなに醜い私でも受け入れてくれるというのなら、私はどんなに故郷が荒もうと、そこを受け入れます」

キキョウは振り返らずとも、その声色から少女の確固たる決意を目にした気がした。自らを醜いと揶揄する彼女が、彼にはいつの日の誰かに重なって見える。

 「俺の奥さん、リナリアってんだ。めちゃ美人だろ?」

 「え? あ、はい。そうですね」

 「あいつが十二歳の頃、グラジオは十五歳。あいつはちょうどその頃、グラジオに惹かれていた」

シオンは突然の話に驚く。どうやらイベリスには、恋敵がいたらしい。

 「リナリアは、調査隊の隊長の愛娘。小娘だろうと誰も刃向かう奴はいない。さらにグラジオが雑用だったのを良いことに、あいつは意地悪なちょっかいばかり出してたみたいで。そんなことばっかしているうちに、グラジオは調査隊から姿を消していた」

キキョウは口早にあわてて付け足す。

 「ああ、誤解すんな! 別にお前を責めたりしてるわけじゃない……その、ただの土産話だ」

シオンは取り乱す男の背中を見て微笑む。

 「キキョウさんは、優しいですね」

 「……」

照れ隠しだろうか、キキョウは黙り込んだ。そうして彼はやや強引に話を変える。

 「グラジオとは、楽しくやれてたか?」

 「ええっと。少なくとも私は、楽しかった……です」

シオンは確実な答えを出せなかった。夢を捨ててしまった彼の毎日は、本当に楽しいものだったのだろうか。いまだ答えは出せない。

 キキョウはシオンの答えを待たずに口を開く。

 「グラジオは俺の親友だった。いや、あいつが俺をそう思ってたかは知らねえけど、少なくとも俺にとっては親友だった」

 「あいつは俺より三つも年下だった。そんな幼いやつが、お前を救うために命を賭けたんだ。そのときは叶わなくても、十五年の時を経てそれを叶えた」

男は妙に達観したように続けた。

 「男って生き物は、惚れた女の笑顔だけで嬉しくなっちまう単純な生き物なのよ。お前が楽しかったなら、お前はきっと笑顔だったろ。なら確信していい。グラジオは楽しくやってた、ってな」

 シオンの瞳はキキョウの横顔を映す。その横顔は、どこか悲しさを帯びている気がした。親友を失ったあの日の辛い心境を、まだ忘れられずにいるような。

 そのときシオンは思い出した。キキョウ、それは花の名前だということを。

 視線を下に落とすと、音を立てぬようにしておもむろに花図鑑を開いた。キキョウの花言葉、それは"友の帰りを願う"。




 大森林・チョウラン近くの森に入れば、徐々に雨が降り始めた。健康的な緑色をした葉は水滴に叩きつけられ、森を心地良い音で満たしてゆく。泥濘ぬかるみ始めた地面は、馬の蹄鉄や荷車の車輪から自由を奪った。

 「……ダメだ。馬車じゃこれ以上は進めない」

キキョウは苛立ちを隠して話す。そして為す術無く告げた。

 「チョウランにはずいぶん近づいた。でもすまない。ここまでだ」

シオンは立ち上がるとキキョウへ近づく。

 「ありがとうございました。本当に助かりました」

キキョウはシオンへ振り返る。びしょ濡れのローブを羽織ったまま、馬車の隅を指さした。

 「そこにある鞄、持ってけ。グラジオの花図鑑が濡れちまうだろ。ああ、あとそこにある傘も」

シオンはずっと足下にあった鞄を差し出される。またも助けられてしまった。

 「ありがとうございます。何もかも頂いてしまって――」




 シオンは馬車から降りた。鞄を抱えて傘を差し、馬車の先頭に座るキキョウの正面に立つ。

 「それでは、私は行きます。ほんとうにお世話になりました」

 「……おう。気をつけてな」

シオンは背を向けると、そのままゆっくりと歩き始める。靴を泥まみれにしながら、一歩一歩を重ねてゆく。

 親友が命を賭して救い出した想い人が、またあるべき場所へと帰ってゆく。キキョウはこの瞬間においてもまだ分からなかった。果たしてグラジオは、これを許してくれるのだろうか。




 森は少しずつエメラルドグリーンに染まり始める。しかし雨音だけは相も変わらず、いまだそこへと響き渡った。漂う水の粒は雨の雫とぶつかって壊れてゆく。宙を舞う光の玉は雨に遮られながらも、必死に帰る場所を探していた。

 「……ごめんね、みんな」

 雨音の中シオンはそっと呟く。もし自分が森を出ることなく生贄として命を差し出していたならば、森はこうして厄災の雨に晒されることなどなかったのだ。

 それでもシオンは森の外で多くのことを得た。決して後悔をしてはいなかった。この森を初めて脱出した日から決めていたのだ。

 "愛すること"には、いつか終わりが訪れる。それが有限であるからこそ、尊く美しい。少女は儚い一瞬のために、永遠の命を捨てたのだ。

 チョウランに降り注ぐ大雨は、『時届きの花畑』をも濡らし続ける。長い時間水に晒されたトキバナは、やがて腐り落ち枯れてゆくだろう。トキバナの絶滅はすなわち、『時届きの花畑』の終焉。そしてそれは『輪廻の血族』の使命の終わりを意味する。彼女の永遠だった命は、有限へと近づいていた。






○キキョウ

科・属名:キキョウ科キキョウ属

学名:Platycodon grandiflorus

和名:桔梗(キキョウ)

別名:岡止々岐(オカトトキ)

英名:Balloon flower, Chinese bellflower

原産地:日本、朝鮮半島、中国

花言葉:全般「永遠の愛」「誠実」「清楚」「従順」

    英語「endless love(永遠の愛)」「honesty(正直、誠実)」

      「the return of a friend is desired(友の帰りを願う)」

      「obedience(従順)」


※引用『花言葉-由来』https://hananokotoba.com/

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