32.シオン=『』
幸い雨はすぐにあがった。シオンはリナリアの少し後ろをついて歩く。
シオンはその女性がかつてグラジオと深い関わりを持っていたことを知りながらも、どんな言葉を交わすべきなのか分からなかった。しかしそれはその女性も同じようで、背を向けたまま世間話のひとつにも花が咲かない。雨があがったばかりで
リナリアの家へはすぐに到着した。彼女が取り出した鍵で扉を開けば、そこからは賑やかな声が飛び出してくる。
「ママお帰りなさい!」
リナリアは少年の頭に手を据える。
「ただいま、ソウ。ヒメちゃんを見てくれてた?」
「ヒメなら大丈夫だよ。俺がずっーと見てたから!」
「ありがとう。ソウは偉いわね」
玄関へ駆けてきた少年はリナリアの子だった。そしてヒメというのは、まだ赤ん坊である娘の名のようだ。
リナリアは振り返るとシオンに優しい声色で語りかけた。
「さ、シオンちゃん。どうぞ」
「お、お邪魔……します」
シオンはそっと家の中へ足を踏み入れた。ソウは帽子からはみ出す湿ったミント色の髪を、ただ不思議そうに見つめる。シオンはそんな少年にどういう反応をそればよいか分からず、ただ微笑みながら会釈をして通り過ぎた。それでもまだ背中から少年の視線を感じるが、彼女はやや逃げるようにしてリナリアへ続いた。
居間に入ると、リナリアは台所へ向かい戸棚からティーカップを取り出した。そのまま彼女は黙々と、慣れた手つきで茶葉を準備してゆく。シオンはリナリアの言葉通りテーブルに向かい合った席のひとつへ腰かけて待っていたが、沈黙に耐えかねとうとう口を開いた。
「そ、その、綺麗なお部屋ですね」
リナリアは手元からシオンへちらりと視線を移すと、少し微笑んで応える。
「ふふ、ありがとう。まだ引っ越してきたばかりだからね。新しいの」
「ああ、そうだったんですね」
「夫の仕事の関係でね。まだ一年も経っていないんじゃないかしら」
リナリアは談笑に応じつつ、台所を後にしてシオンのもとへ移った。テーブルの前までやってくると、湯気の出たティーカップをシオンの前に置く。
「はい。どうぞ」
「ありがとうございます」
シオンはそれを一口含む。それはダージリンだった。苦手な
気づけばリナリアはふと別の場所へ歩み始める。てっきり彼女が向かい側の席に腰掛けるとばかり思っていたシオンは、ついその背中を目で追った。
リナリアがようやく足を止めたのは、居間の隅にひっそりと佇む小さな本棚の前。彼女はしゃがみ込むと、端から順に本をなぞりはじめた。
「そう、これ。あった」
リナリアは立ち上がり、その本の表紙をシオンへと見せる。しかしシオンはそれが一体何か分からない。
リナリアはまたこちらへ戻りながら手にした書物の説明を始めた。
「これは、花図鑑。グラジオが大切にしていたものらしいのだけど、馬車の中にずっと置きっぱなしだったの」
リナリアはそれをテーブルに置く。
「それからは、私が
シオンはすかさずそれを手に取ると、リナリアから許可を請うこともせずおもむろに書を開いた。ページをめくってゆけば、そこに事細かく記されているのはありとあらゆる花の名。所々には、幼き日のグラジオが残した肉筆が刻まれている。その字体はどうも、彼が書いた置き手紙と重なった。
そしてあるページをめくるとき、彼女は記されたとある文字に釘付けになる。
「花……言葉?」
リナリアはようやく向かいの席に腰掛けシオンの言葉に応じた。
「花言葉というのは、花から連想される言葉や感情を、花それ自体に付加したもの。口で言葉にするのが難しいとき、その代わりとして花を贈って気持ちを伝える」
「そうそう、私のリナリアっていう名前も、花言葉からとったみたいなのよ」
シオンは付け足すように言葉を連ねたリナリアへ尋ねた。
「リナリアの花言葉は、何というのですか?」
リナリアは苦笑して応える。
「それがね、"この恋に気づいて"だったり"幻想"だったり。いったい私の親はどういうつもりで名づけたんだか、って感じよね」
その答えが、シオンにはなぜか分かった気がした。そして彼女は口走る。
「……それはきっと成長して、いつか恋をして。恋い焦がれたり、叶ったりして。純白な恋に悩む乙女のように生きて欲しい、きっとそんな願いではないでしょうか?」
リナリアはその言葉を聞くと、少し驚きながらも嬉しそうな顔をした。
「……それは、素敵な解釈かも。今度から名前の由来を聞かれたら、その言葉を借りようかしら」
「わ、私の拙い表現でよろしいのでしたら」
「ええ。とっても気に入ったわ」
そしてリナリアは、続けざまに少女へ問いかける。
「でも、あなたにはもっと調べたい花があるはずでしょ?」
シオンは首をかしげる。リナリアは優しい声色で続けた。
「あなたの名前。シオンだって、花の名前じゃないの」
その言葉を聞いて少女は思い出した。己の名が花から由来していることは当然知っていたはずなのに、まるで後ろめたいものから目を背けるかの如く、その知識だけが欠落していた。
無意識に閉ざした扉を解錠それた少女は、抑えきれない気持ちの赴くままに辞書を引く。そして彼女は、己の名の意味を知った。
「シオンの花言葉、それは――」
少女はただ、嬉しそうに何度もその花言葉を繰り返す。失いかけていた生きる意味は、こんなにも身近なところに記されていた。
十五年に定められた命。そんな儚いものにさえ、深い愛に満ちた名が与えられていた。少女は、紛れもない人間なのだ。
そのとき、突如として居間の扉が開かれた。現れた男は黒髪を掻きながら、のそのそと居間へ入ってくる。
振り返ったリナリアはその男へ声をかける。
「あらあなた、起きたのね。まったく、もう昼過ぎですよ」
「いやー悪い悪い。また夜通し没頭しちまったもんでよ……」
シオンはそれが誰だろうかと見つめていれば、気を回したリナリアはその男を紹介してくれた。
「――あの人はキキョウさん。私の夫よ」
そのときキキョウは、眠気を吹っ飛ばし目を見開いた。なぜなら彼もまた、目の前のミント髪の少女の正体を知っていたから。いや、思い出したと言うべきだろうか。
男はシオンにほうへ向くと、迷いながらも口を開く。
「……あのだな。もしかしたらお前さんにはもう関係ない話かもしれないが、聞いてくれ」
彼の言葉は突拍子の無いものだったが、シオンは不安気な表情で頷く。
「俺は若い頃からずっと、天候の研究をしている。グラジオと一緒に調査隊にいた頃もそうだった。お前さんの住む森に漂う水の粒も光の玉も、天候に関係する現象だと仮定して真っ先に研究してた。それくらい、この研究テーマは俺の人生の中心にある」
男は続ける。また一段と暗い表情に塗り変わった。
「でも、お前さんに聞きたいのはそのことじゃない。聞きたいのは、ここ最近から大森林・チョウランの方角の空を覆い続ける、謎の雨雲についてだ」
シオンはその言葉を聞いたとき、ただ唖然とした。彼女の知る故郷は、一滴の雨さえも降りはしないのだから。
根拠も無いのに、シオンは声を上げた。
「そ、そんなはずない! あそこは、永遠の快晴が続く土地です!」
「……俺はこの街から観測した雲は、ここ数ヵ月間ずっとチョウランの真上にかかっている。風に流されることもなく、雲自体が消滅することもなく。まるで何か目的でもあるかのように、あそこにじっと留まっていやがる」
「……わ……私のせいだ」
シオンはすぐに理解した。儀式に失敗したことが、全ての始まりだったのだ。ヒペリカ村の伝承では、雨が厄災の始まりを意味する。
自由な世界で送る自由な人生を惹かれ、村で送る細切れにされた人生を捨てた。グラジオを選んで、親交を育んだ村の者たちを捨てた。確かに自分の意思で、故郷とそこに住まう彼らに目を背けたはずだった。それなのに今頃になって湧き出るのは、暗く重たい罪悪感。
選んだはずのグラジオを失ってしまった今、また取り替えるようにして故郷を想っている。都合の良い自分が、果てしなく気味悪い。
心の中に自己嫌悪が溢れてゆく。それは胸の中で際限を知らず膨らんでいき、ついに少女を飲み込んだ。苦しい。ただひたすらに苦しい。もう
ただ深いところへ沈んでゆく。そんな見えないところで溺れるシオンを掬い上げたのは、側に寄り添うリナリアだった。
「……もしシオンがそうしたいと言うならだけどね。その、いいんじゃないかな。チョウランを、見に行ってみても」
まるで全てお見通しであるかのように、リナリアの提案はシオンの心の内を捉える。
「で、でも……」
「分かってる。あなたはきっと自由な人生を送るために、あなたを縛り付けるチョウランを出たのよね。でもそれはね、村への裏切りなんかじゃない。ただのあなたの、シオンの一度きりの人生の選択。あなたはひとりの人間として、ひとつの選択をしただけ」
シオンは彼女の言葉に揺らいだ。これが本物の母親というものなのだろうか。
「あなたが望むなら、チョウランに帰ったっていいと思うの。いつだって帰っていい。それが故郷というところなんだから」
温もりに溢れた言葉は、孤独の少女を掬い上げた。シオンの瞳は情動によって潤い始める。
「人生というのはね、きっとあなたが思っている以上に果てしなく長い。一つのものを愛し続けることも素敵だけど、いつの日か決別が訪れる。私だってそうやって成長してきた……詳しいことは秘密だけど」
母親は少しの可憐さを残して語り終える。ふとキキョウは口角を上げた。彼にはリナリアの言う"詳しいこと"が何か分かったから。
それでもキキョウはそれに言及せず、ただ立ち上がる。そして自分の若き日を重ねるように呟いた。
「たく、故郷見に行くくらいで誰に文句言われるってんだよ。いいじゃねーか」
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