31.その出会いは、少女へ何かをもたらした。
愛することの終わりを知った日から、早くも数ヶ月の時間が流れようとしていた。グラジオが息絶えようと、オラスはその傍でじっと彼に寄り添い続ける。シオンにそんな一人と一頭を引き裂くことはできず、彼女は彼らをそのまま草原へ残して夜を費やし街に戻った。
心に空いた穴はあまりに大きい。街に戻ってからもしばらくは立ち直れずにいた。独りぼっちでグラジオの残した家に籠もり、ベッドの上でうずくまる日々だけが流れてゆく。
それでも一週間ほど経過すれば、シオンはまた人間としての生活を始めた。地図に記された花屋へ出向き、そこで仕事を手にする。少しのお金を手に入れることができたので、それで食事を続けた。
彼女は立ち直ることができた。それはきっと強く自由に生きることこそ、グラジオの遺した願いだったからだろう。
年を越え、華暦四二八年。シオンは一六歳を迎えていた。
「――シオンちゃんお疲れ様。今日もありがとうねぇ」
ある日の夕暮れ時。花屋の店主である老人は、注文を受けた花束を慣れた手つきで作りながら、花瓶に水をやる店員のシオンへと語り掛けた。丁度最後の花に水をやり終えたシオンは、店主のほうに振り返ると一礼する。
「ご、ご苦労様でした」
ミント色の目立つ髪色を隠すための帽子に、少し底の厚い革靴。特に靴はずっと気に入らなかったが、数ヶ月も経てばようやく慣れてきた。グラジオが手配してくれた花屋での仕事も、もう随分と手に馴染んできた気がする。
いつも通りの帰り道を往く。夕暮れになるとやはり陽は弱まるが、食事を覚えた彼女がそれをもう恐れることはない。家に続く少し急な上り坂でも、息を切らすことなく楽に登り切れた。
ようやく家の玄関へと辿り着く。年季の入った鍵を鍵穴に差し込み捻ると、扉から心地良い解錠音が鳴った。ゆっくりと扉を開き、また同じ家へと帰る。
一人で使うには広すぎる居間。心の拠り所が欲しいと思って、テーブルの上には一本の花を飾った。二段ベッドの上段はもう使うこともないだろうと、敷かれた布団を外してしまった。時が経てば経つほど、この家に居たはずのもう一人の面影が薄れてゆく。殺風景だったデスクにグラジオの書き残したつぎはぎの置き手紙が広げてあるのは、少しでもその薄れた面影を感じたかったからだった。
その日のシオンは、早い時間から眠りに就いた。ここ最近ずっと働き詰めだった為に、休暇である明日を前にしてその疲れがどっと吹き出たのだろう。
そしてまた夜は明ける。生憎の曇り空。その日のシオンは街の賑やかな方まで出向き、買い出しをする予定だったのに、空の機嫌は彼女を阻んだ。
シオンは居間に置かれたクローゼットの前に立つ。クローゼットの中は花畑のように鮮やかだった。世話になりっぱなしである花屋の店主には孫娘がいるらしく、その孫娘が不要なものを選んで譲ってくれた。
派手な色合いのものが多いが、それはシオンの好みでない。あまり華美でない紫のリボンが特徴的なお気に入りで着飾ると、いつもの帽子を深く被る。縁が曇った古い姿見の前でくるりと回り、椅子に置かれた少しの荷物を抱えて街の中心地を目指した。
「――まいど!」
店主である男性の聞き慣れた声。シオンはいつもの店でいつも通り、果物の盛り合わせを買った。
籠に詰め込まれた色とりどりの果物は、この街へ来た日にグラジオが準備してくれたものと同じ顔ぶれ。彼から直接お店の名を聞く機会は無かったため、自力でこの店を見つけるのは少し大変だったが、見つけてからというものずっとここに頼りきりだった。
その繁華街はシオンにとって未知に溢れているが、やはりどうも他の店に立ち寄る気にはなれない。ガラス越しに並ぶ美麗な衣服に視線は惹かれるし、新たな知を求めて本を漁るのもいいだろう。それでも彼女が店に踏み入ることをしないのは、愛した人から夢を奪ったことへの贖罪だった。
彼女が用のある店はたったここだけなのだと言い聞かせる。そしていつも通り、寄り道することなくそのまま真っ直ぐと家に帰る。つもりだった。
平穏を邪魔したのは、突然の激しい雨。大慌てで建物に飛び込んでゆく人々を真似るように、シオンも屋根のある所を目指した。
きっと休業中なのだろう。シオンはそれが何の店かも分からない、道沿いの建物の軒下へと潜り込む。
とりあえず雨が止むまで待つしかなさそうなので、シオンは果物の籠を地面に置いた。最初はただ雨音に耳を傾けていたが、何となく空の表情が気になったので、彼女は一歩前進して耽るように空を見上げてみる。
思い返せば、初めて雨を見たのはつい最近のことだった。大森林・チョウランでは決して見ることの無かった空模様なので、最初はかなり衝撃を受けたことを覚えている。もう見慣れたつもりでいたが、今日はより一層空の機嫌が悪いようで、音から騒々しさを覚えるくらいに激しい。それでもシオンがそれを恐れることはなく、ただ空の遙か向こう側から降り注ぐ大粒の水滴たちに釘付けになるだけだった。
シオンは無意識のうちに、深く被ったはずの帽子を外した。広まった視界で、またその光景を目に焼き付ける。
「……あ、あの」
そのときシオンの側方から、突如として声が飛んだ。軒下に居るのは自分一人とばかり思っていたが、まだ他に人が居たらしい。シオンは慌てて帽子を被り直すと、恐る恐る声の方向へと振り返る。
視線の先には、上品に佇んだ穏やかな女性の姿。見覚えは無かった。
しかしその女性は、まるでシオンを見知っているかのような口ぶりで語る。
「その、ミント色の髪はもしかして……」
「あ、えっと、これは」
シオンはその女性に不審がられたとばかり思い込み、どうにか誤魔化す術を探る。しかしながら女性の声掛けに、そういった意図はなかった。
「あなたは、ヒペリカ村に居た……」
その久しい言葉にシオンは耳を疑う。女性は気にも留めずに話を続けた。
「あなたは私を知らないと思うけど、私の名前はリナリア。あのときヒペリカ村を訪れた、調査隊の一人です」
「調査隊……グラジオと同じ……」
グラジオの名を発したとき、リナリアの顔は自然と下を向く。穏やかな表情の中には、確かな悲しさを孕んでいた。
まるで触れてしまってはいけないことのように、リナリアは静かな声色で語る。
「彼のことは……すごく、残念だった。まだ一五歳だったのに」
ここでシオンは違和感に気付く。リナリアのその言葉から、シオンは彼女が真実を知らされていないことを悟った。そして同時に、自分が知っているということを伝えるべきだと理解した。話の切り出し方を一瞬ばかり迷ったが、シオンはあえて端的にそれを語る。
「……グラジオは、生きていました」
リナリアは声を発さずとも、その事実に驚愕した。シオンは彼女がその先を知りたがっていた気がしたので、尋ねられずとも詳細を告げ始める。
「今の私の名前は、シオンといいます。イベリスの次の世代にあたる輪廻の血族です」
「もう一年ほど前になります。私はヒペリカ村に再び現れたグラジオが差し伸べてくれた手を取り、ついにチョウランから脱出しました」
リナリアはどこか期待するように尋ねた。
「そ、それじゃ、グラジオはまだ生きて――」
シオンはその希望を不本意ながら打ち砕く。
「数ヶ月前のことです。恐らくは村の追っ手によって、彼は殺されました。もうこの世界に彼はいません」
「……そう、だったの」
その場に雨音だけが響く。そしてリナリアは切り出した。
「……あのね、預かり物があるの。グラジオが大切にしてた物、なんだけどね」
「……預かり物、ですか?」
「そう、預かり物。これはきっとあなたが持っておくべきだと思う。グラジオと多くの時間を過ごしたあなたがね。よければ、家まで付いて来てくれない?」
それは突然の提案だった。シオンは迷わない。彼女はただ、今は亡き想い人の面影を求めていたから。
そしてシオンは一歩身を乗り出し、その意向を告げる。
「ぜひ、ぜひ頂きたいです! リナリアさんが、よろしいのでしたら……!」
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