30.もし叶うのなら、あの瞬間をもう一度。

 ついに四肢は制御を失った。かろうじて留めていた意識も、ついに朦朧とし始める。矢の先端に仕込まれた毒は、グラジオの体を着実に蝕んでいた。

 太陽の光の眩しささえ感じなくなった。きっともう空には月が浮かんでいるのだろう。夜が巡る前には、きっと毒が回って息絶えると思っていた。

 グラジオにとって、"死"という感覚はずいぶんと久しぶりだった。十五年前、調査隊の一員として訪れたヒペリカ村。日々を雑用として従事するはずだった。しかし何を思ったのだろうか、彼はある少女に手を差し伸べた。

 雑用は決して良い待遇ではなかったが、それは己に役割が与えられた共同体に属するという、ある種の平穏だった。それでもなぜ彼女を選んだのか。あのときはただ必死で、そんなことを考えて結論を導き出す余裕など無かった。でも今なら分かる。少年は、恋をしていたのだ。

 「……やっぱり……死ぬ……のは……怖いな」

 隠し続けてきた脆い感情が溢れる。グラジオにはまだ、やり残していることがありすぎた。死を受け入れることなど、到底できはしない。

 いかなる恐怖も克服したはずだった自分がどうして死を恐れるのか、もう分かっていた。心に嘘をつくことはできない。生の謳歌はまだ、彼の手の届かない先にあるのだ。眠りには落ちたくない。願わくは、ただ想い人の元へ。心から愛しているのだから。

 「――ジオ! ――グラジオ!!」

 聞き慣れたはずの声には涙が絡んでいた。決別したはずだったシオンの声が、夜月の照らす草原で自分の名を呼んでいる。狭まった視界をもう一度こじ開けると、そこにはこちらを覗き込むシオンの顔がかすかに映った。

 自分に残された時間はもう僅か。これが最期の機会なのだろう。ならばせめて、心の奥底に溜まったものを吐き出そう。

 「……ごめん。僕は君を村から連れ出しておきながら……また一人にしようとした」

 「そんなことどうでもいい! だから早く手当てを! 一緒に街に帰るの!!」

 シオンはグラジオの両肩に手を置いた。頬に滴った雫は、やけに温かい。彼の恣意的な解釈では、それが置き去りにした男に対する怒りや悲しみの涙ではないように思われた。

 グラジオは掠れた声で絞り出す。

 「もう……遅いんだ。ごめん……ね」

 「嫌だ! 絶対に、絶対に助けるから!!」

 シオンはグラジオの体を起こすべく、彼の腕を肩にかける。しかし男の大きな体を持ち上げることなど、華奢な少女の力には叶わない。しかし少女は、ただ必死に男の腕を引っ張り続けた。

 「……シオン。僕はもう……助からない」

 「――嫌だ!」

 「だからせめて……最後に話を聞いて欲しい」

取り乱していたシオンは、男の優しい声色に慰められるようにして落ち着きを取り戻した。少し俯くと、唇を噛みしめたまま掴んでいた腕をそっと離す。認めたくはないが、彼が絶望的な状況にあることくらい、博識な少女には分かってしまう。

 グラジオは変にこわばることなく、ただ自然に伝えた。

 「シオン……僕は君のことが好きだ。だからあの日……君の手を引いた。だからあの日……君を抱えて飛び出した」

彼は絶え絶えな息を整え、また落ち着くと続ける。

 「……森を出たときは……こうしようと決めていた。君が森の外で生きられるようになれば……僕は……君から離れようと」

 「シオン……君はまだ……十五歳だ。だから……僕のような……」

グラジオは置き手紙で伝えたはずの言葉をまた口にしていた。あそこに記したことが全てだったから、もう今になって語る内容は持ち合せていない。

 「グラジオ!」

 シオンは遮る。もうその言葉は聞いたから。これ以上聞きたくもなかったから。

 「グラジオ! 私は、あなたに救われた! 一緒に村を飛び出して、一緒にオラスに乗って、一緒な家に住んで、一緒に街を歩いて! 囚われていた私に、手を差し伸べてくれた! だから……私は……」

 「あなたを……あなたを愛しているの!」

 そのあまりに朗らかな声はどこかで悲哀を帯びながらも、夜月の照らす草原に響く。シオンは瞳から溢れて頬をつたう涙に気づかぬまま、グラジオへ心からの笑顔を贈った。

 グラジオは声を震わせ、少女の笑顔に応じた。

 「僕は……あの日に戻りたい。君と同じ年齢で……君と同じ背丈で。もし叶うのなら……やり直したい。あの瞬間を……もう一度……!」

 そして掠れた声は静まった。シオンを真っ直ぐに映し出していた瞳は、少し焦点を逸らすとそのまま動かなくなる。まるで蝋燭ろうそくの火をそっと吹き消したような、そんな最期だった。

 「……グラジオ。私は、今も昔も。どんな姿のあなたも、大好きだよ」

 そして少女は、愛することの終わりを知った。

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