29.相棒は相棒のために

 べっとりとした血が付着した鉈を握る男は、獲物を前にした獣のようなまなこでグラジオを捉える。不自然つり上がったに口角からは、底知れぬ憎悪を精算する好機へ至れたことへの喜びが窺える。

 グラジオは奪った鉈を握り直すと、それを構え応戦の準備を整えた。咄嗟に鉈の刃を抑え込んだ左手からはどっぷりとした血が滴っていたが、そこに気を配る余裕はない。

 十五年の年月を費やす中で剣術を修めた。命のやり取りという極限の場面でも平静を保つことのできる、心の強ささえ会得した。彼の澄んだ瞳は恐怖に震えること無くただ真っ直ぐに、迫り来る男を捉える。

 男は大きく踏み込むと、まるで知恵無き獣のように力ずくで襲いかかる。高い地点から全力をもってして振るわれる鉈は凄まじい威力だが、グラジオはなんとか反応してみせた。刃と刃が激しくぶつかり合い、平原に甲高い音が鳴り響く。

 押し合いが膠着し男は一度鉈を引いたが、そこからはすぐに力任せの乱れ打ちが始まった。その狂気を孕んだ連撃はいまだかつて受けたことのないものだったが、それでもグラジオはなんとか喰らいついた。

 時間とともに体力は蝕まれ、互いの鉈の先は敵の体へと届き始める。一方は頬をかすめ、また一方は脇腹を薄く裂く。向かい合う男たちは着実に消耗していった。それでもその極地で、グラジオは一歩上を往く。彼は一瞬の隙を見切ると残りわずかな力をそこに賭け、男の握る得物を弾き飛ばした。

 グラジオは流れるような動きで鉈を振り上げた。そのまま刃の側面で男を叩きつけ無力化する。それが彼の狙いだった。しかしその寸前で、狡猾な奇襲はまたも繰り返される。

 突如としてグラジオの右肩に走る灼熱感。そこから少し遅れて、体中を悪寒が駆け巡った。かすかな痺れが右肩からじわりじわりと広がってゆく。やむなく膝をついたグラジオが背後を振り返れば、右の前足を切り裂かれて倒れ込むオラスの、さらに向こうに人影が映った。

 「残念だったのう。うぬはそこまでよ」

 装飾の施された大きな弓を抱えるその女は、男衆筆頭弓矢取ゆみやとり・アジサ。襲撃を仕掛けた男たちの馬車とは別行動を選んだアジサは、たった一本の矢をもってして、またもグラジオを仕留めた。

 肩に走る電撃のような痛み。グラジオは思わず鉈を手放した。拾い直そうとも、右肩から広がる痺れはその意思に抗う。気づけば向かい合っていた男はすでに鉈を拾い上げ、またこちらへじりじりと歩み寄った。

 「くそ……こんなところで……」

 グラジオはまだ動く左腕で突き刺さった矢を抜くと、それを近くへ放り投げた。噴き出す血をすかさず押さえ込む。しかしもうそのとき、そこは目の前の男の間合いだった。咄嗟に見上げた先の鉈。冷酷にこちらを向いた刃から、克服したはずの恐怖を覚え始める。

 「――止めろ! 頸を飛ばして易々と殺してしまっては、興に欠けるというものよ」

 アジサは男を制止した。このまま呆気なく死にゆくはずだったグラジオは、意外な言葉を発したアジサに視線を奪われる。

 アジサはこちらへと一歩ずつ近づく。おもむろに手を放り出した女は、グラジオのそばに転がる矢を指差した。

 「そやつは村から持ち出した特注品でな、いわゆる毒矢というものだ」

 ここでグラジオは、肩に感じる痺れと悪寒の訳を知った。束の間、耐えがたい虚無感が訪れる。それでも女の話は無情に続けられた。

 「うぬらが村にもたらした薬とかいう技術。そこで得た知識を元に試作されたのが、その矢なわけだ。うぬが抵抗もできずに這いつくばっているということは、試作品は大成功らしい。無様よのう。うぬは己が村にもたらした技術によって、村の者に殺されたわけだ」

ついにグラジオは頬を地面を落とす。とうとう体に力が入らなくなった。

 「あいにく矢の先に塗れる毒の量は限られておる。苦しんで死ぬがよい」

女はほくそ笑んだ。死にゆく男へ追い打ちをかけんとばかりに口数を増やし始める。

 「うぬを愛したあの化け物は、愛する者を失うことの悲しみ知ったわけだ。そしてそれは永遠を生きる化け物を無限に縛り続ける。人間のように、死をもってその苦痛を忘却することもできぬ、哀れな生き物よ」

 アジサは手拭いで矢を拾うとグラジオに背を向けた。生きながらえた男衆たちは、従順にそれへと続く。

 「そこで孤独に息絶えるがいい。恨むならうぬをそそのかし、村を敵に回させた化け物を恨め」

 「あの子は……化け物じゃない……人間……だ……!」

 耐えきれぬ怒りを露わにしたかった。毒のせいだろうか、声を張り上げることすら叶わない。アジサはその掠れるような声を確かに聞いていたが、何も返すことなくその場を去った。




 草原から刺客が消えたとき、先に立ち上がったのはオラスだった。右の前足を引きずって不器用に歩きながらも、なんとかグラジオの元へと辿り着く。

 「オラス……ごめんな……守ってやれなくて」

 グラジオはオラスに語りかけた。当然返答は無い。それでもグラジオは、言葉が通じているものとして続ける。

 「僕はもう……動けそうにないけど……君はまだ歩けるのだろ? なら……行くんだ。僕を置いていってくれ。死に様は……誰にも見せたくない」

オラスはその言葉を理解しているかのように、グラジオから顔を背ける。見苦しいくらい不器用な足取りで、グラジオの元を後にした。

 「君は……本当に賢いな。生まれたときから……ずっとそうだ」

オラスの姿が小さくなってゆく。しかしグラジオは知らなかった。その相棒はあるべき野生へ帰るのではなく、本当の帰る場所を目指していたことを。 




 陽が落ち始める時刻になっても、少女は時間を忘れてただ走り続けた。突如として目の前から消えた、想い人だけを探し続ける。それでも運命は残酷で、街から彼の面影が見つかることは無かった。

 シオンは道端に崩れ落ちる。裸足で駆け回ったせいで、足の裏は傷にまみれた。

 街の人々にはその廃れた少女が奇異に映る。通りすがる誰もがそれを奇妙に思い、そっと眼差しを向ける。しかしその誰一人として彼女に声をかける者は現れない。

 「どうして……どうして……」

 見上げた先に夕日が少女を温かく照らそうとも、彼女は冷え切った表情で俯いた。明るい茜色で街を照らす夕焼けがあろうと、彼女は暗い闇に包まれた。

 ふと彼女の前に大きな影が差し込む。ふと見上げればそこに現れたのは優しき人間でなく、右足を引きずった賢馬けんば。あまりに突然の再会に、彼女は唖然とした。

 オラスは真っ直ぐにこちらを見下ろして立ち尽くす。彼は右の前足から血を滴らせたまま、たった一人でこの街まで戻ってきたのだった。

 「オラス……あなた前足が……!!」

シオンはオラスの欠損に気がつくと、慌てて正面から駆け寄ろうとした。しかし彼はゆっくりと体を動かし横を向いてしまう。

 「……オラス?」

そこに言葉などなくても、オラスが何のために街へ帰ってきたのか、シオンには分かった気がした。彼は自分へ、背中を明け渡している。

 「大丈夫、なのよね。信じてる。だってあなたは、グラジオの相棒なんだから」

 シオンはオラスに飛び乗った。初めてこの背中に跨がった日がチョウランの森の中だったことをふと思い出す。追っ手の迫る中、グラジオの手を借りてやっとのことで騎乗した。

 しかいもうここに彼の姿は無い。想い人を追い続ける気持ちがそうさせたのだろうか、背が伸びたわけでもないシオンは、大きな馬に一人で跨がっていた。

 オラスは急ぐように街の外へと駆け出す。馬車の点在する道だろうと、今の彼が持つ全速力でそこを進んだ。相棒の待つところまで、想い人を届けるために。

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