28.グラジオラス=『ひたむきな愛』
床に崩れ落ちたシオンは、握ったつぎはぎの手紙を投げ捨てた。手紙の文字から玄関の方向へ、自然と視線が移ってゆく。おもむろにその場へ立ち上がった少女は、一切の考え無しに玄関へと駆けた。
もうどこへ行ってしまったかも分からぬグラジオを捜す。どんな街まで行こうと、どれだけ時間かかろうと。もはや愚直とも言える思考が少女の頭を一杯に満たした。彼が何を思って街を去ったのか分からなくとも、もうシオンは止まらない。恋をした人間とは盲目なのだ。
シオンは帽子も被らずに、裸足のまま家を飛び出した。一つの手がかりも無いまま、ただがむしゃらに街中を駆け巡る。
「――ちょっと、何かしらあれ」
「……気味の悪い髪色だな」
朝焼けの街に、ミント色の髪は溶け込まない。そのうえ裸足ともなれば、少女は当然の如く奇異な視線へと晒された。
しかしシオンはそれに気付かず、ただ探し続ける。まだそこに愛おしい人が居ることだけを信じて。
開けた草原をゆっくりと進んでいるときだった。捨てた街がもう随分と小さくなった所で、オラスは自然と足を止める。グラジオは優しく語り掛けた。
「どうしたんだ? お前が勝手に足を止めるなんて珍しいな」
オラスは惑うこと無き彼の愛馬。されど馬に変わりないので、どれだけ深い絆があろうとも言葉を返す訳もない。それでもグラジオが会話を試みるのは、昔からの癖である。
「……疲れてる、なんてことは無いよな。よりにもよって、おまえともあろう
しかし依然としてオラスが動く様子はない。グラジオは少し困った顔をしたが、仕方なく手綱から手を離すことにした。
「そうだよな。やっぱりお前も故郷が恋しいよな。お前はあの街で生まれて、ずっとあの家で僕と暮らしていたんだから」
グラジオは後方に倒れ込んで空を見上げる。
「分かったよオラス。少し休憩だ。次の街へは急ぐ必要もないし、ゆっくり行こう」
グラジオはオラスと荷車を繋いだ器具を外した。
エメラルドグリーンの葉を揺らす木々は、たくさんの水滴を身に纏って下を向く。地面は酷く泥濘んだ。それでも光の玉は、帰る場所を探し続ける。大森林・チョウランには、いまだかつて無いほどの長い雨に襲われていた。
長老であったカムの突然の死は、村の人々を恐怖に突き落とす。それが
ヒペリカ村の至る所では、長老の死を弔う黒色の垂れ幕が掲げられる。黒色は雨に晒され、より滲んだ色へと変貌した。
とある小さな家の中。畑を見渡すことのできる窓からは、雨模様を眺める小さな人影が一つ。どこか寂しげな表情を浮かべる少年は、名をシネラと言った。
「……ねえママ。今日も水が降ってるね」
「……そうね。残念だけど、今日もお家の中で過ごしましょう」
「ねえママ。僕たちの畑、大丈夫かな?」
「大丈夫よ、きっと」
畑に植えられた植物たちは、少年の目にも明らかなほど弱っていた。過分な水は、とうとう彼らを腐らせ始めつつある。
「ねえママ、お姉ちゃんとパパはまだ帰ってこないの……?」
シネラは振り返って母に目を合わせると、寂しそうな顔のまま尋ねた。母は思わず下を向く。
「ごめんね。リージアとお父さんが帰るのは、もう少し後になるわ」
予想に難くない答え。シネラはとうとう、心に生じたひずみを吐き出すように訴えた。
「ねえ! どうして姉ちゃんは帰ってこれないの!? どうして!?」
「そ、それはね――」
シネラは母の言葉を遮る。少年の激情は止まらない。
「姉ちゃんが、生贄にされるかもしれないから帰ってこられないんでしょ! そうなんでしょ!」
今にも泣き出しそうなほどの震えた声でシネラは叫んだ。
母は彼をただ抱擁した。送る言葉を見つけることはできなかったが、せめてもの温もりを与えたかったから。
道の側で一休みするグラジオへ距離を詰める馬車が一つ。それを操る
「……何かお困りで?」
グラジオはその穏やかな声色の方向へ振り向くと、寝転んだまま言葉を返す。何かのトラブルに見舞われ、立ち往生しているとでも思われたのだろうか。
「ただの休憩ですから。お気遣いなく」
「そうでしたか。それは失礼しました。それでは」
そうして
しかしながら、その
それが躊躇無く放たれた直後、グラジオは間一髪のところで凶弾を回避する。すかさず懐から小さなナイフを取り出すと、それを迷うことなく放った。鋭い刃は男の右腕を突き、握られていた弓矢は地面へと落ちる。
男のうめき声より先に耳へ飛び込んだのは、オラスの悲鳴。グラジオが視線をオラスに向けたちょうどそのとき、愛馬はそこで激しく転倒した。
オラスのすぐ傍には、鉈を握った新たなる刺客が佇む。握られた鉈にこびり付いた血から、グラジオはオラスが何をされたのかすぐに理解した。
荷車から飛び出したグラジオはオラスの元へ駆け出し、丸腰のまま刺客へと飛び付いた。男を地面へ押し倒すと、振り上げる前の鉈を左手で押さえ込む。怒りを露わにして冷静さを欠いたグラジオを目前に、男はただ笑った。
男が目に映すのは、グラジオの背後で鉈を振り上げた三人目の刺客。それでも一五年を捧げたグラジオは鋭い。男の妙に逸れた視線は、グラジオへ新手の存在を勘付かせた。
グラジオは咄嗟に体を捻り、馬乗りになった刺客から鉈を奪うと同時、その男から離れた。背後の男が鉈を振り下ろしたのは、その束の間。勢い余った鉈は、地面に伏していた男を激しく切り裂いた。
しかしその男は顔色一つ変えず、ただ平然と鉈を握り直す。彼らはもはや仲間の命など惜しくない。ただそこにいる、村を悲劇に導いた男への復讐だけが望みなのだから。
○グラジオラス
科・属名:アヤメ科グラジオラス属
学名:Gladiolus spp.
和名:グラジオラス
別名:唐菖蒲(トウショウブ)、オランダ菖蒲(オランダアヤメ)
英名:Gladiolus, Sword lily
原産地:南アフリカ、地中海沿岸、中央ヨーロッパ
花言葉:全般「密会」「用心」「思い出」「忘却」「勝利」
赤「堅固」「用心深い」
ピンク「たゆまぬ努力」「ひたむきな愛」「満足」
紫「情熱的な恋」
英語「strength of character(人格的強さ)」「sincerity(誠実)」
「preparedness(準備)」「remembrance(記憶)」
※引用『花言葉-由来』https://hananokotoba.com/
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