26.死とは、悲しいものだった。
「――ありがとう、楽しかった。それじゃあね」
ハイドレジアは笑顔で言い残し、村の方角へゆっくりと歩み始めた。
少女の背中が小さくなってゆく。揺れる黒髪が颯爽と遠のいていく。そのときスターチスは、初めて"寂しさ"という感情に触れた。
思わず立ち上がると、もう届かない小さな背中に手を伸ばそうとする。それでもスターチスは、ハイドレジアを呼び止めることのできる説得も、呼び止めるに足るだけの理屈も持ち合せていなかった。
ハイドレジアは森を守る為に死んでゆく。花たちの守護者として産み落とされた特異な存在である少女には、ただの人間の少女であるハイドレジアの死を止める義理など、どこにも無いはずだった。それでも確かにスターチスは、手を差し伸べようとする。人間との出会いは、少女の空っぽだった心に人間を愛する感情を
一晩を越して朝日が差し込んだ頃。ハイドレジアは傷んで汚れた服のまま、森を抜けて再びヒペリカ村の土を踏んだ。
多くの者が彼女の捜索に出たのだろう、村にはあまりに
結局誰一人として出会うことはなく、ついにその家の前に至った。母にどれほどの心労をかけたのだろう。玄関に足を踏み入れると、恐る恐る扉を開く。扉の音に気がついた母は、大慌てで玄関に現れた。
少女は下を向く。あまりに突然の家出をしたのだ。とてつもなく怒られる予定だった。
そのときハイドレジアの視界には、病的に細い腕が映り込む。紛れもない、母の腕だった。その腕は弱々しくも、彼女をぎゅっと抱きしめる。
「……ごめんね。ごめんね」
彼女に送られたのは叱責でなく、温かな抱擁。ハイドレジアはただ謝らなければならないとばかり思っていたのに、母はそんな隙を与えないほどひたすらに同じ言葉を繰り返す。
「ごめんね……ごめんね……」
事切れるようにその言葉を言い終えると、母は涙を拭った。たった数日会わないうちに、ずいぶんとやつれたように見える。
母は弱った声で零した。それはまるで、定められた運命を恨むように。
「どうして……レジーが……」
レジー、それは娘の愛称だった。ハイドレジアは一五年間の人生で、最も弱々しく呼ばれる自分の名を聞いた。
ハイドレジアはただ正直に、自身の胸の内を打ち明ける。
「……ママ、ごめんなさい。私、その、怖くなっちゃって……」
ハイドレジアが生贄に選ばれてから、母はずっと精神的に参ってしまっている。だからこそ彼女は強くあろうとした。
「……私は、大丈夫だよ。もう大丈夫だから。村のために、ママのために頑張るから」
村の広場では
「――なんだろう。この胸つっかえたような気持ちは」
ハイドレジアを見送ったあのときから、スターチスの心に差し込んだ何かが、彼女の呼吸の邪魔をする。
死を選んだ人間の少女は確かに笑っていた。それでもスターチスの瞳には、彼女の笑顔が仮面に見えた。
生ける者はやがて死んでゆく。それは逃れられぬ宿命なのだから、悲観するべきことではない。長い時を生きるスターチスにとって、命の価値というものに持ち合せる感情は淡泊だった。それなのに彼女の脳裏には、少女の姿が焼き付いてしまう。ハイドレジアという一つの命が消えゆくことに、耐えがたい虚しさを覚えた。
少女の足は、もうそこに無いハイドレジアの背中を辿るように歩みを始める。途方も無いほど長い時間を過ごした花畑を離れることへと心苦しさよりも、初めて見た人間の愛おしさが勝った。
陽が落ちてから、随分と時間が経った。若木を切り出して組み上げられた舞台はようやく完成し、そこでは女性たちの伝統舞踊が始まる。
生贄に選ばれたハイドレジアの家には、
「まもなく、だ」
「……はい。ただいま呼んで参ります」
真っ白な生贄の装束を身にまとったハイドレジアは、居間の奥から呆然としたまま窓を見つめ続ける。窓に反射する自分の化粧姿には目もくれず、その奥の暗い集落を目にした。ときおり訪れては辺りを照らす光の玉に、視線を奪われながら。
「……レジー」
母の声が聞こえた。その悲壮感に満ちた声色から、ハイドレジアはすぐに理解した。とうとうこのときがやって来たのだと。
「……すぐ、行くね」
玄関に現れたハイドレジアは長老に一礼をすると、男たちが抱える
ハイドレジアは
「お願いします」
目の前の親子の悲惨な運命に耐えられなかったのか、彼らは下を向いたまま小さく頷いた。
ハイドレジアは
「ハイドレジア……! ハイドレジア!!」
泥だらけの裸足のままこちらへと駆けてくる少女は、スターチスだった。そして彼女は、
「……ごめん。ごめん!」
突如現れたスターチスに、ハイドレジアは困惑した。
「ど、どうして――!」
スターチスは微笑んで応える。
「私は初めてできた友達を見捨てられなかった。ただ、それだけだよ」
その優しい声にハイドレジアは思わず涙を流す。極限に追い込まれていた心が愛に触れ、ついに決壊してしまった。
このまま村の望み通りに死んでゆくはずだった。そんなとき最期に温かさをくれたのは、昨日出会ったばかりの友達だったのだ。
二人の少女の元には長老の怒声が飛ぶ。
「そこの
スターチスは泣き崩れるハイドレジアが地面へ倒れ込まないように抱いて支えながらも、神妙な面持ちで長老に目を合わせる。そして彼女は、ただ簡潔に尋ねた。
「……私は、生贄になれますか?」
ハイドレジアはスターチスが何を思ってそう尋ねたのか、すぐに理解できた。頬を伝う涙を気にも留めずに声を荒げる。
「ちょっと……何言ってるの!? 駄目だよスターチス!! やめて――!!」
長老はミント髪の少女の正気を疑うことはもせず、真実だけを述べた。その男とて、村の幼い命を奪うことは本望でない。所在も分からぬ少女の命を使う方が、流される涙が少ないことを知っていた。
「……お主が成人する前の
ハイドレジアは、長老と向き合うスターチスの肩を必死に揺らす。
「ねえ、やめて! 私が生贄なのはもう変わらない――!」
それでもスターチスは、ハイドレジアに見向きもせず応えた。期待通りの答えがあれば、こうすると決めていたのだ。
「……私が生贄になります。だからこの子を殺さないで」
後方でただ泣き崩れる母も、
「お主は本当に分かっておるのか? 生贄になるということは、そこで命を落とすということなのだぞ?」
「分かっています。それでも私は、やらなければならない」
「……それほどまで。命を捨ててまでも、そこの少女が大切なのか?」
「そうです。だって彼女は、私にたくさんのことを教えてくれた。初めてできた、大切な友達だから」
長老は理解し難いと思いながらも、その突如として現れた博愛に満ちし少女へと告げる。
「……よいだろう」
長老の言葉に、男衆でさえも耳を疑った。この直前で生贄を変えると言うのだから無理もない。
ハイドレジアの母は少女たちの元へ駆け寄り、愛娘の手を引いた。ハイドレジアは強く抵抗するが、母は娘の腕を強引に掴み、その忌々しき
そのときスターチスは、友の母へと声を掛けた。
「あなたが、ハイドレジアの"母親"ですか?」
見知らぬ少女を自分の娘の身代わりにするという後ろめたい感情からか、ハイドレジアの母はそれに応じない。応じてしまえば、自分は計り知れぬ業を背負うと確信した。
ハイドレジアは必死に抵抗し、スターチスの元に戻ろうとする。母に掴まれた腕を、どうにか振りほどこうと足掻いた。
「離してお母さん!! 私が生贄なの!」
スターチスは落ち着いた声色でハイドレジアの母へ語る。
「お母様。私が役目を果たすまで、どうかその子をお願いします。あなたもその子も、何も背負うことはありません」
その真摯な声を聞き、ハイドレジアの母ついに返答した。
「……ごめんなさい」
ただそう呟くと、彼女はその細い腕から想像できぬ程の強い力で娘の手を引く。玄関を潜ると、家の奥へ消えた。ハイドレジアの怒号だけがそこに鳴り響く。
娘と引き換えに見知らぬ少女を犠牲にすることへの罪悪感は言うまでも無く果てしない。ただどんな呪いを背負うことになろうとも、娘を守るのが母の仕事であると信じた。だから彼女は、全力で娘を家に押し込む。
長老は親子が家に戻ったのを見届けると、スターチスに告げた。
「お主は村の人間ではないようだが、なぜそこまでしてあの娘を守る?」
「……それは、私にたくさんの人生があるからです。あの子がこれから歩むたった一つの人生が失われるくらいなら、私の繰り返し続ける人生を捨てた方がいい」
何気ない言葉は長老を戦慄させた。彼の知る、村の伝承のとある記述。そこに記された存在が、今まさに彼の目の前に現れたのだから。
「……そうか。本当に、おったのか。輪廻の血族は、本当に実在していたのか」
その老人の呟きの意味は、伝承を知らぬスターチスに理解できなかった。それでも少女は決意を揺るがせることなく、ただそこへ佇む。
長老は男衆に指示を下した。
「……新しい装束を持って参れ。今すぐにだ!」
○アジサイ
科・属名:アジサイ科アジサイ属
学名:Hydrangea macrophylla
和名:紫陽花(アジサイ)
別名:ハイドランジア、西洋紫陽花(セイヨウアジサイ)
英名:Hydrangea
原産地:日本、アジア、北アメリカ
花言葉:全般「移り気」「冷淡」「辛抱強さ」「冷酷」「無情」「高慢」
白「寛容」
ピンク「元気な女性」「強い愛情」
緑(アナベル)「ひたむきな愛」「辛抱強い愛情」
英語「heartlessness(冷酷)」「boastfulness(高慢)」
「You are cold(あなたは冷たい人)
※引用『花言葉-由来』https://hananokotoba.com/
『Creema』https://www.creema.jp/
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