25.スターチス=『途絶えぬ記憶』
木の奥でしゃがみ込んだ少女は不安を顔に貼りつけ、こちらに視線を合わせることもせずに一人俯いた。ボロボロの履き物と汚れて傷んだ衣服。手荷物すら持っていない。どう考えても、森を歩く人間の格好ではなかった。
ミント髪の少女が改めて声を掛けようとしたとき、黒髪の少女は怯えた様子で震え声を零した。
「あ……あの……ごめんなさい!」
勢い余って飛び出した大きな声が、静かな森に響き渡る。意表を突かれたミント髪の少女は困惑した。
「ええっと……どうしたのかな?」
「あ、あの……私は村から逃げ出してきて……それで……」
黒髪の少女は随分と取り乱した様子で話す。
まだ"人間"を知らないミント髪の少女は、何と返してやればいいのか分からなかった。だから彼女は、一つずつ知っていくことから始める。
「ごめんね。その、"村"ってなあに?」
あまりに初歩的な質問に、黒髪の少女は少し驚く。それでも真摯に教えた。
「え!? ええっと、村っていうのはね、その、人間が集まって暮らしているところ……ですかね」
ミント髪の少女は続けざまに問う。
「その"人間"というのは、群れで生きるものなの?」
「そ、そうですね。人間は一人じゃ生きられないから……」
「……でもさ、それって不便じゃない? だってさ、人間には人間という呼び名しか無いのに、多くの人間が集まって暮らしたら、誰が誰だか分からなくなっちゃうでしょ」
人間には持ち合せない奇異な価値観。黒髪の少女はそれに意表を突かれつつも、ただ思いのままに答えた。
「えっとそれは……だからそうならないように、私たちには名前があるんじゃないでしょうか……?」
「"名前"?」
「そうです。わ、わたしにもハイドレジアという名前があるように……」
「……じゃあ、あなたは村に居るとき"人間"じゃなくて、ハイドレジアと呼ばれているの?」
「そうです、それが名前というもの……ですから」
そこでようやく質問は途絶えた。その空白を埋めるように、黒髪の少女は尋ね返す。
「それで、その、あなたの名前はなんと言うのですか? ヒペリカ村の人ではなさそうですけど……?」
少女はハイドレジアの質問に答えることができない。なぜなら彼女には名前が無いのだから。
ミント髪の少女は悩んだ挙句、本当の事を明かすことにした。
「私はね……たぶん"人間"と違うの。群れることなくここに一人で生きている。名前だって持ってない」
彼女は意図せずとも、悲しい顔をした。それは自分と似た形をしている少女が、酷く遠い存在に思えたから。
そのときハイドレジアは咄嗟に立ち上がった。黒く長い髪が乱れる。
「に、人間だよ……!」
どこか舌足らずながらも、熱意ある訴えが続く。
「あなたは人間だよ……! だって、私と同じ形をしているでしょ! だから、あなたは私と同じ、人間の女の子だよ!」
ミント髪の少女は、ハイドレジアの感情的な声に少し気押された。そしてハイドレジアはここで、思わぬことを提案する。声色はまた細くか弱いものへと戻った。
「あのね、もし良ければなんだけど。名前が無いならさ、私が付けてあげたいな……」
ハイドレジアは名も無き少女に目を合わせ、すぐにまた目を逸らした。自分がした滅茶苦茶な発言が恥ずかしくなってしまったから。
しかしハイドレジアに返ってきたのは、意外な回答だった。
「……いいよ。私、名前が欲しい!」
ミント髪の少女は歩み寄ると、ハイドレジアの手を取る。ハイドレジアはただ唖然とした。
「ほ、ほんとに?」
「ほんとに。だって私は、人間なんでしょ?」
ミント髪の少女は笑った。ハイドレジアもまたつられるように少し口角を上げると、目の前の名も無き少女を足下から順に見回す。そうしてある言葉に運命を感じた彼女は、それを名も無き友人へと告げた。
「……スターチス! あなたは、スターチス!」
「すたーちす……?」
「そう、スターチス。花が落ちても綺麗な
返事のないミント髪の少女を見かね、ハイドレジアはまた消極的な言葉を紡いだ。
「……ごめん、やっぱりおかしいよね。親でもないのに、他人の名前を勝手に決めちゃうなんて――」
「スターチス。私はスターチス……! ありがとう、ハイドレジア。私は、スターチスよ!」
そのときハイドレジアの瞳に映ったのは、嬉しそうに笑う少女の姿だった。その笑顔に呼応するように、彼女にもまた笑顔が湧き出る。
気弱ながらも、少女は名付けた友人へ手を差し伸べる。
「よ、よろしくね。スターチア」
そしてその手は、白く細い手に包まれた。
「よろしく。ハイドレジア!」
ハイドレジアはスターチスに連れられ、花畑の中央へと場所を移した。スターチスは平たい石に腰掛けると、ハイドレジアはそれと向かい合うようにして草原に腰を下ろす。
「スターチスはここに住んでるの? 家も畑も無いのに」
「んーと、その"家"ってのはよく分からないけど、確かに私はここに住んでるよ」
スターチスは空を仰ぐ。
「私はね、光と水だけで生きていけるみたいなの。だから光が少ない夜は、ちょっと弱っちゃうんだけど」
スターチスは視線をハイドレジアに戻すと、続けて口を開いた。
「じゃあ次は私が聞いてもいい?」
「うん、いいよ」
「ハイドレジアはさ、どうして村を抜け出してきたの?」
ハイドレジアは言葉を詰まらせた。スターチスにはまだ、その表情の裏にどんな感情が潜んでいるのかを
そしてようやく迷いが晴れたのか、ハイドレジアはスターチスに応じる。
「――私は、もうすぐ死ぬんだ。"死"っていうのは、私もまだ分からないけど、全てを忘れて眠ること……なのかな」
スターチスには戸惑う。理解しがたい未知の連続に、思わず聞き返した。
「ど、どういうこと……?」
「私ね、生贄なの。だからもう明後日のこの時間、私は何もかも忘れちゃうんだ。スターチスのことも、覚えてられない」
「どうして……そんな……」
「人間はね、群れてても弱い生き物なの。だから"神様"っていう、すごーく強い存在にすがる。でもその為には、生きたままの少女の体を捧げなくちゃいけない。私がその役に選ばれたの」
あまりに酷な真実に、スターチスは言葉を失った。それでもハイドレジアの話は続けられる。
「私はそれが怖くて怖くて、だから村から逃げてきちゃった。きっと今頃、みんなが私を探してる。私を連れ戻すために」
スターチスは、その残酷な未来を否定するべく訴えた。
「で、でもさ、そんな事しなくても、森はずっとずっと元気だったよ? その"神様"っていうのに頼らなくても、ずっと空は晴れてたよ!」
ハイドレジアの声は少しだけ低くなる。やり場のない怒りが彼女を苦しめた。
「……ずっとだなんて、なんでそんな適当言えるの? あなたが何を知っているっていうの?」
スターチスは目の前の彼女が見せた怒りの情動に自然と口を閉ざす。本当はこの森の全てを知っているのに。
彼女はまさしく森と共に生きてきた。彼女こそ証人なのだ。だから彼女には、森の安寧に確信がある。しかしそれを説明するということは、己の人間とかけ離れた生態を晒すということ。
一度は踏み留まった。それでもスターチスは、自分を人間だと認めてくれたハイドレジアを信じることにする。意を決すると、本当のことを語り始めた。
「信じてもらえるかは分からないけど……私は、ここが森になるずっと前から住んでいる。ここで何度も生きて、死んでいる」
「……な、何言ってるの?」
当然の反応だった。スターチスは急いで補足する。
「私はここで初めて生まれたときに、自分の中に刻まれた使命を知った。それは、私がここに咲く花たちの守護者であるということ。ここに花畑がある限り、記憶を抱えたまま何度でも蘇るということ。そうしてこの森の成長をずっと見続けてきたの」
全てを理解し受け入れることができたとは言えない。それでもハイドレジアは、スターチスの真っ直ぐな瞳を疑えなかった。
スターチスは話を続ける。信じてもらう為に、ただ必死で何か言葉を付け足そうとした。
「私が見てきた森は、ずっとずっと快晴で。それで心地良い風が吹いていて、それで――」
ハイドレジアはその言葉を遮る。信じるにはもう十分だった。ただそれでも、彼女の顔は晴れない。
「――違うの」
ハイドレジアは続けた。
「……違うの。あなたの言葉は、多分本当だと思う。でもあなたの見てきた森が元気だったのは、あなたがこの森を独りぼっちで暮らしてきたから」
「どういうこと……?」
「私たち人間には生きる為にたくさんのご飯が必要で、眠る為のお家が必要で、たくさんの飲み水だって必要なの。だから私たちは、森からそれを少しずついただく。でもその結果、森は少しずつ壊れ始めてしまった。私たちがこの森に来たから、スターチスの見てきた素敵な森が壊れつつあるの」
スターチスには、その説明が妙に腑に落ちてしまった。ハイドレジアの話は結ばれる。
「私たちが森と共存するには、森の神様にすがらなきゃいけない。だから生贄を捧げるのは、村としての責任なの……と、私は教わった。小さな頃から、ずっとずっとね」
すかさずハイドレジアは立ち上がる。そして彼女は突拍子もなく宣言した。
「ごめん、暗い話して。私、村に戻るね」
「え……? どうして――」
「だって、スターチスの森を壊したくない。でも、その為に村のみんなの生活を邪魔しようなんてできない。だから私は生贄になる。自分で話してみて、ようやく決意できたの。私はどっちも守りたい」
○スターチス
科・属名:イソマツ科イソマツ属
学名:Limonium sinuatum
和名:花浜匙(ハナハマサジ)
別名:スターチス、リモニウム、チース
英名:Statice, Sea lavender
原産地:ヨーロッパ、地中海沿岸
花言葉:全般「変わらぬ心」「途絶えぬ記憶」
紫「しとやか」「上品」
ピンク「永久不変」
黄色「愛の喜び」「誠実」
英語「remembrance(記憶)」「success(成功)」「sympathy(同情)」
※引用『花言葉-由来』https://hananokotoba.com/
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