24.”でーと”
「――それじゃ、この花を港まで頼むよ」
ある老人は、
グラジオは花屋を営むその老人から金貨の入った袋を受け取ると、馬車の先頭に飛び乗った。
「報酬、確かに頂戴しました。それでは」
硬い表情のまま愛想無く告げると、グラジオはオラスの手綱を引く。馬車はゆっくりと動き始めた。
見送る老人が小さくなってゆく中、彼はふと振り返り、木箱から頭を出した鮮やかな一本の花を目にする。
かつては夢として語るほどにまで魅了されていたはずの花。その美しさにもう一度気付かされて、再びあの夢を志す、などということは起こらなかった。それでも彼はそこで何かを思い留まり、馬車を止める。店の中へ戻ろうとする店主の老人を大声で呼び止めた。
「あ……あの、ご老人!」
老人はこちらを振り向く。
「何でしょうか、
「その……店に人手は足りていますでしょうか? ……いや急に妙なことを聞いて申し訳ない。一人で営むには、随分と大きなお店に見えたもので」
「……人手か。考えたこともなかったの。この街の港がこれほど立派にならなければ、もっと細々と
グラジオは少し悩みながらも、そこであることを提案した。
「でしたら――」
置き手紙が示したとおり、グラジオは夜が深まっても戻らない。
シオンは既にベッドに入っていたが、まだ眠りには就くことができずにいた。そんなとき微かに聞こえてきた鍵を捻る音から、グラジオがようやく帰ったことを知る。それでも彼女は彼に話しかけることなく、ただじっとブランケットに
グラジオは仕事用のトランクケースから手を離すと、おもむろにテーブルへと歩み寄る。ほんの少しだけ中身が減った気がする籠を見ると、少し嬉しそうな顔をしてそれを持ち上げた。役目を果たした置き手紙を捨てると、男はまた台所へと向かう。
帰りの遅いグラジオとシオンが言葉を交わすことのできる時間は少ない。それでもシオンにとって、ここでの生活は幸せだった。
数日も経てば、シオンは長年避けてきた食事に少しずつ慣れ始める。ただ食べられる物は、果物や野菜ばかりだった。それでもその僅かな食事が、光の弱い時間でもある程度活動できるだけの原動力を彼女に与えた。シオンはついに、チョウランの外で生きる術を身につけたのだ。
シオンは人間としての生活に慣れ始め、もはや全てが順調だった。そんなある日、グラジオはいつもより早く家に帰る。夕暮れ時の街が描かれたキャンパスを堪能していたシオンは、久しぶりに起きたままでグラジオを出迎えた。
「おかえりなさい、グラジオ。今日はずいぶん早いのね」
「……ああ。予定より早く仕事が進んでね」
グラジオは椅子に仕事用のトランクケースを置くと、少し間を開けて彼女を誘う。
「少し、外を歩かないか? ずっと家の中だと、飽きてしまうだろ?」
シオンはすぐに頷く。それはあまりに嬉しい誘いだった。
「うん、行きたい」
シオンはグラジオの帽子を深く被ると、まだ慣れない靴を履いて彼の横を歩いた。賑やかな通りに出れば、多くの人の話し声や笑い声が耳に飛び込んでくる。
シオンはちらりとグラジオの横顔を見ると、少し恥ずかしそうにして小さな声で呟いた。少しばかり強引だと分かっていながらも、その事実を認めさせたかったのかもしれない。
「なんか、こうやって一緒に歩いてるとさ……」
「……ん?」
「その、"でーと"っていうんだよね。何だか、少し恥ずかしいかも。えへへ」
誤魔化すように笑って呟く。しかし彼はもうそんな初々しい顔などできない。彼は年を取ってしまったのだ。
グラジオは合わせるように微笑んだが、そこには隠しきれぬ悲しさが絡んでいた。今の彼には、一五年前に想い人として映っていた少女が、まるで娘のような別の愛すべき存在に見えてしまった。
だからグラジオは、ふと言葉にしてしまう。
「きっと周りの人には、親子だと思われているよ」
悪気なんてなかった。でもシオンにとって、決して嬉しい言葉でない。
「……だ、だよね」
それでもシオンは笑って誤魔化した。
「――この街に一つだけある花畑。ここは教えてあげておきたくてね」
グラジオはシオンを連れて、街中のとある公園にやって来た。噴水から放射状に伸びる石畳。その合間を埋めるようにして、様々な花が咲き誇っている。
シオンにはそこが、終わりの秘境と重なって見えた。
「何だか、懐かしいかも」
グラジオはその秘境を知らないが、心奪われた様子の彼女を見て安心する。
「君は花が好きだろうから、ここを気に入ってくれると思ったんだ」
シオンはグラジオのその言い方が心に引っ掛かった。遠回しながらも、自分はもう花に興味を失ったという意思表明に聞こえてしまう。
シオンはどうしてもその疑念を晴らしたかった。
「グラジオだって、お花は好きでしょ?」
「……まあ、そうだね。花図鑑は無くしちゃったから、もうあのときほど詳しくはないけどね」
そこで話は途切れる。しばし沈黙が続けば、グラジオはその都合の悪い話を変えた。自分が夢を捨てたことに、もう言及されたくなかったから。
「……あのさ。今日は話をしたくて外に連れ出したんだ」
グラジオは一度逸らした視線をシオンに戻す。シオンはまだグラジオの意図を理解できず、ただ不思議そうに彼を見つめた。
グラジオは、彼女へ本題を示す。
「聞いていおきたいんだ。あの日の続きを」
「続き?」
「君のことを、教えて欲しい。あの日森でした話の続きを、知りたいんだ」
「……そっか、途中だったもんね。分かった、いいよ」
シオンは快く受け入れると、おもむろに噴水の縁に座り込む。グラジオも彼女に続いて、そのすぐそばで腰を下ろした。
「……私が人間を初めて見たのは、ヒペリカ村ができてから数十年後のこと、だったかな」
――名も無きミント髪の少女は、花畑で慎ましく暮らした。澄み渡った空に、また朝日が昇り始める。いつも通りの、心地良い朝が始まるはずだった。
平たい石を囲うようにして小さく広がる草原から体を起こす。凝り固まった体を、背伸びでほぐした。太陽の温かさを感じながら立ち上がれば、そこには見慣れた花畑が今日も一面に広がる。
そのとき、視線の下の方に白い何かが映り込んだ。すかさずそちらへ顔を向けると、彼女の足下には、こちらを興味深そうに見つめる一匹の子猫。
「あら。初めましてかしら?」
少女はしゃがみ込むと、その子猫に顔を近づけた。子猫は警戒する様子も見せることなく、ただ真っ直ぐに少女を見つめ続ける。
「どこから来たのかな?」
当然返答はない。すると突然にして、その子猫はおぼつかない足取りで彼女の元から離れ始めた。あまりにふらふらとした様子を見かねた少女は、その子猫の少し後ろに続く。
「怪我……してるのかな?」
子猫は突如転倒した。少女は思わず駆け寄る。
「やっぱり……!」
少女はしゃがみ込むと子猫に触れる。どこかに傷口があるものだと思い込んで、その子猫を隅々まで調べた。しかし、それらしき怪我は一つたりとも見当たらない。
「あれ……? なら、どうして?」
子猫もまた、こちらを呆然と観察した。この人間は何を心配そうにしているのだろうかと言わんばかりに、きょとんとした表情が窺える。
子猫は少女から目を逸らすと、その隙に細い腕からするりと抜けだす。そこからは、ただ颯爽と若い森の方へと歩んだ。少女はもうそれを追うことはやめ、ただその場に立ち尽くす。
子猫の誘いだろうか。少女の運命が揺らいだのは、まさにこのときだった。
子猫に釣られる彼女の瞳はついに、いまだ見ぬ人間という生き物を捉えた。木陰からこちらを覗き込んでいるのは、黒い艶やかな髪を揺らす人間の少女。背丈や佇まいからして、同い年か少し年下くらいだろうか。どうやら暫し前から、じっとこちらを覗いていたようだ。
ミント髪の少女は引き込まれるように、その人間の少女へ見入った。しかし人間の少女はミント髪の少女と目が合ったことに気が付くと、慌てて木の陰へと引っ込んでしまう。
ミント髪の少女は思わず声を掛けた。
「あ、あなたは……!?」
自分と同じ形をした生き物を見たのは初めてだった。その興奮から、ミント髪の少女は咄嗟に駆け出す。木の奥からはみ出した、ひらひらと風に揺られる黒い髪の元へと急いだ。
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