23.新しき景色と古き夢
グラジオとシオンが目的地に到着したのは、もう日が暮れ始めた頃。街にはガス灯がぽつりぽつりと灯り始めた。煉瓦や石で作られた建物の窓から差す光もまた、彼女の目には眩く映る。
街の中に入ると、道には何台もの馬車が行き交う。オラスは荷車に繋がれていないため身軽だが、周りの馬車の速度に合わせてゆっくりと道を進んだ。
シオンはのんびりと流れてゆく街の景色に視線を奪われる。ガス灯の向こう側にある歩道を行き交う、村では見慣れない装いの人々。道路脇に止まって荷を降ろす馬車たち。賑やかな声と暖色の光を漏らす大衆食堂。列ができた小さな露店。瞳に映るあらゆくものが、彼女にとって新鮮だった。
「僕の家はこっちだ」
街に入ってから坂を上り始めると、少しずつ
「僕はオラスを裏の厩舎に戻してくる。ここで少し待ってて」
そう告げたグラジオはある一軒家の敷地に入ると、少し窮屈な庭を通って建物の裏手へと消えていった。
シオンは小さくなってゆく彼をただ見ていた。家屋の影に隠れその姿が見えなくなれば、自然と一軒家の方に視線が移る。木造の少し古い家屋だが、石造りの家を知らぬ彼女にはかえって愛着が沸く。
あまり手入れの行き届いていない庭には、雑草が生い茂っていた。街に来て新しいものに触れてきたシオンにとっては、そのかすかな自然がどこか安心感をもたらした。
「ごめん、待たせたね。さ、中に入ろう」
オラスと別れたグラジオはシオンのもとに戻ると、彼女を一軒家の入り口へと案内する。ここから、少女の新たな生活が始まった。
グラジオは玄関の扉を解錠すると、そのまま足を踏み入れる。シオンはその背中を追った。
家の中に入ると、床の傷や壁の割れ目がかなり目についた。決して綺麗ではない。それでも温もりのある居間だった。
以前の家主が置いていったのだろうか、家具は少しだけ新しい。グラジオは天井から垂れ下がった照明を灯すと、テーブルを挟んで向かい合った椅子の片方へとシオンを案内した。
「すぐに夕食を準備するから、そこで待っていて」
「あ、あの……私は食べるのがあまり得意じゃなくて――」
グラジオはテーブルに手をつくと、シオンに顔を近づいて真剣な面持ちで語る。
「だめ。食べるんだ。ここは毎日晴れが続くチョウランとは違う。ときに空には雲もかかるし、雨も降る。日中でも光が差さないことは珍しくない」
シオンは少し気押されてしまった。そのとき、かつて本で読んだ"父親"という存在と彼が重なる。
「わ、わかった」
グラジオは渋々と了承するシオンを横目で見ると、少し笑みを零す。彼の目には、その少女が不貞腐れる娘のように映ったのかもしれない。
「少しだけまっててね」
グラジオはそのまま台所へと向かった。
シオンは大人しく椅子に腰掛けると、そこからじっと姿勢よく固まる。苦手である食事時の訪れに、緊張を隠せない。グラジオはシオンに背を向けて台所で手を動かしながらも、やけに静かな彼女を気遣い声を掛けた。
「この家は二階が無いけど、奥の窓からは街を一望できるよ」
グラジオは少女がいつも窓からの景色を楽しんでいたことを思い出した。だからせめてもの気休めに、そんなことを伝えたやった。
シオンはそれに興味を惹かれ、勢いよく立ち上がった。椅子が床を擦る音と共に、彼女の少し明るい声が居間に響く。
「み、みたい。行ってくる!」
グラジオの居る台所から反対側へ歩みを進めると、そこにはひとつの窓がひっそりと佇んでいた。シオンはゆっくりと古びたカーテンを開く。
そこには広がるのは、無数の光があちこちに灯った活気ある街の情景。街の奥には、寄港した船がかすかに映る。ここは港町であった。
シオンは本の知識を頼りに尋ねる。
「ねえ、あれが"船"というものなの?」
グラジオは台所から返答した。
「ずっと奥の方に見える乗り物のことなら、それが船だよ。今は暗くてあまり見えないだろうけど、その奥には海もあって――」
シオンは後方から聞こえる解説を耳にしながらその新しいキャンパスを堪能した。村で目に焼き付けた自然の温かく慣れ親しんだ色彩とは異なる、煉瓦と石に支配された冷たくも刺激的な色彩だった。
そのときおもむろに足を動かすと、感じたのは何か硬い物体にぶつかる感触。すかさず視線を下に落とすと、そこには空っぽの花瓶が転がっていた。グラジオの朗らかな説明は続いていたが、シオンはそれ気を取られてしまった。そのとき一瞬だけ抱いてしまった不安を否定したく、ふと辺りを見渡す。しかしそこには空っぽの本棚。白紙のメモ帳と一本のペンだけが置かれただけの殺風景なデスク。そこに一本でも花があれば、彼女は安心できたのに。
シオンには分かってしまった。幼き日グラジオが掲げた夢は、もう今の彼の中に残されていない。本棚にあの花図鑑さえ置かれていないのは、彼が夢を捨ててまで自分を選んでくれたからだろうか。嬉しいような、悲しいような。だから少女はそれを見て見ぬふりしてしまった。
グラジオは小さくカットした果物を皿に盛ると、それをシオンの前に出してやった。彼女が何か一つでも食べられるようにと、数種類の果物が少しずつ並べてある。
シオンは皿の前に置かれたフォークを握ると、たまたま目に留まった果物を刺してみる。意を決すると、恐る恐る口に放り込んだ。
しかし長年食事を避けてきた彼女の体は、そう簡単に食べ物を受け付けてくれない。シオンは反射的にえずくと、すぐにそれを戻してしまった。神妙な面持ちで見守っていたグラジオは、すぐに彼女のそばへ駆け寄る。
「大丈夫かい!?」
「ごめんグラジオ……」
シオンは掠れた声で零す。グラジオはさすった背中がやけに小さく感じた。
「……ほんの少しずつでいい。慣れていこう」
結局その日は何も食べられぬまま、少女は床へ就いた。二段ベッドの上で横になれば、その日の疲れがどっと噴き出したのか、彼女はすぐに眠りにつく。
部屋の灯りも消されて真っ暗な中、シオンの寝息に気づいたグラジオは殺風景なデスクへと向かった。デスクの隅に小さなランプを灯すと、メモ帳から紙を二枚ちぎってそこにペンを走らせる。
しばらくしてペンを置くと、彼は何かを考え込むように少しだけそれを見直す。最後の一文字まで目を通し終えると、男はその紙を戻ってテーブルの方へと戻った。
短い夜が明けた。あいにくの曇り空。陽の光が弱いこの日、シオンは少しばかり体調が優れない。重たい体を持ち上げて、ようやく二段ベッドの上から降りた。何とかはしごを下り終えると、ベッドの下段を確認する。するとそこに、もうグラジオの姿は無かった。辺りをぐるりと周囲を見渡すが、やはり誰の気配も感じられない。
ふらふらとテーブルの前にへ辿り着くと、その置かれた一枚のメモ紙に気がついた。それを確認しようと歩み寄れば、それが置き手紙であることを理解する。
"僕は早朝からオラスと
椅子に視線を落とすと、そこには籠に盛られた果物と一本のナイフがあった。いつでも挑戦して、ということだろう。そしてそこにもまた、一枚のメモ紙が挟まっていた。
"少しずつでいい。君が強く生きていくために"
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