22.愛するということ
「……ねぇおばあちゃん。これは何のお花なの?」
家の前の花壇にて。幼き日のアジサは、祖母・アイサに尋ねた。
「この花はね、アジサイというの。お水をたっぷりあげてやらないといけないお花でね……」
アイサは杓子で水を掬い上げると、それを土にたっぷりと染みこませてやる。アジサがその花を興味深そうに見つめていると、アイサはこんなことを教えてくれた。
「この世界の多くの花にはね、花言葉というものがあるの」
「はな……ことば?」
「そう。花言葉というのは、それぞれのお花の個性から連想される言葉や感情を、花そのものへ与えるもの。気持ちを口にするのが恥ずかしいときは、花を贈って気持ちを伝えたりできるの」
「へー。はなことば……」
「花言葉は、同じ花の中でも色によって意味合いが変わってね。ほら、アジサイだって――」
「……ねえ、ここの花、少しだけ青色になってる!」
「青色のアジサイの花言葉は"辛抱強い愛情"。こっちのピンク色は"元気な女性"。ここには無いけど、白色のアジサイは"寛容"で、緑色は"ひたむきな愛"。とても素敵でしょう」
アイサはアジサの頭に優しく手を添え、続きを口にした。
「そしてアジサイ全般の花言葉は"家族"。亡くなったあなたのお母さんは、あなたが成長して家族から独り立ちしたとき、あなた自身が思い描く女性になれるようにと、アジサイから感化されて名前をつけたのよ」
物心つく前に亡くなった顔も知らぬ母が、娘の名前に込めた密かな思い。アジサにはこの祖母の言葉が記憶の中に深く刻み込まれた。
――しかしそれはあまりに突然だった。
「ごめんね。おばあちゃんは、村の大事なお仕事をする人に選ばれたの。アジサとは少しだけ会えなくなるけど――」
ある日、アイサはアジサへ告げた。そしてアイサは『輪廻の血族』の母親役として、村の隅の小さな家へ身を移す。アジサが七歳のとき、彼女は村の養子へと送られた。
「妾は村を出る。化け物に地獄を見せるのだ」
曇り空の中、アジサは男衆に告げた。突然の宣言に彼らは思わず黙り込む。
アジサはたぎる怒りを宿して呟いた。
「妾たちは『輪廻の血族』に見捨てられたのだ。空を見よ。じきに雨なるものが地に降り注ぐ。そうすれば最後、聖火は二度と灯ることもできず、
ある男衆は、恐る恐る口を開く。
「……我々は、『輪廻の血族』を頼りすぎたのではないでしょうか」
一斉にその男へ視線が集まった。アジサは黙ってその男を伺う。
「たとえ際限なく蘇る命であろうと、その重さは変わらないのでは……ないでしょうか?」
アジサはまるで男の瞳の奥を覗き込むような、凄まじい眼光で反論した。
「ならお前は、あの化け物の代わりに自分の娘を差し出してくれるか? お前の娘を、私が焼き殺してもよいか?」
「……そ、それは」
「わかっておる。お前の娘はもうとっくに村を捨てて逃げ出したろう」
場を沈黙が支配する。アジサは男衆に背を向けると、どこか達観した物言いを始めた。
「村の娘は皆、生贄になることを恐れて逃げ出した。聖火が灯ろうとも、もう生贄が足りぬ。どう転ぼうと、村は終焉を迎えるのだ」
そしてアジサは付け足す。それは彼女の執念のため。
「あの化け物へ復讐を果たしたい者は、妾に着いて来い。
それは衝撃的な提案だった。男衆は騒然となる。各々が困惑の声を露わにする中で、ある一人の男だけは決意を固めた顔をしていた。
「……俺は、行くぞ」
「おい、正気か!? 村から無断で出るのは掟破りだぞ!?」
「その村がもうすぐ無くなるってんだ。掟なんてもう無いも同然だろ」
連鎖するように、また別の男も決心を口にする。
「俺も行く。妻と娘から引き剥がされた痛み、思い知らせてやる」
「私はヒペリカ村に住まう者として、『輪廻の血族』へ報いを受けさせるぞ」
そして多くの男衆が、小さくなってゆくアジサの背中を追った。
「もうそろそろ、だよ」
グラジオは呟いた。
「そろそろって、何が?」
シオンは空を見上げるようにして、すぐ後ろに座るグラジオのほうへ振り向きながら尋ねる。グラジオは真っ直ぐに正面を見たまま答えた。
「君の知らない、別の世界だ」
グラジオの答えと同時に、二人を乗せたオラスは大森林・チョウランを脱出した。木々はエメラルドグリーンから青々しく健康的な緑へとその装いを変える。光の玉も水の粒も、もう誰一人としてそこには存在しない。自生する木はチョウランの大木よりも少し小さなものが増え始めた。
それはシオンが紡いできた長すぎる記憶の中で、初めて見た光景。思わず彼女は言葉を失った。
グラジオはそんな少女へ呟く。
「これがこの世界の、あるべき森の姿なんだ」
「……大森林・チョウランは、あってはならない森だったの?」
「チョウランは、自然が本来から持ち合せる何かの均衡が乱れた森。科学では証明できない現象が偶発しているのは、きっとそのせいだ」
「それって……?」
「秘境という存在と……その、君という存在も。均衡の乱れが、君たちを生み出した」
「……そう、だったの」
シオンは自然と俯いた。別に自分の存在が普通ではないのだと断定されたからだとか、これまで自分が生きてきた世界の狭さに落胆したからだとか、そういった理由ではない。彼女はすぐ後ろに居る彼との近くて遠い距離に、ただ打ちひしがれていた。
グラジオは少し間を開けてから話を続ける。伝えたくはなかったが、伝えなければならなかったからだ。
「自然の均衡の乱れは自然によって淘汰され、そのひずみが解消される。それが
「……分かってる。命も愛も永遠なんてない。愛することを始めるということは、愛することの終わりを覚悟するということだから。でもその愛した一瞬こそが、かけがえなく尊いの。私は人間の限りある命を見てきて、そう思い知らされた」
シオンは真っ直ぐと前を見据える。グラジオからは彼女の後ろ姿しか見えなくとも、微笑んでいるのが確かに分かった。
「私は後悔しない。その儚い一瞬を記憶に刻むために、捨てられないものなんて無い」
グラジオはそれをただ黙って耳にした。一瞬だけ視線を下に落としたが、すぐに前方へ戻す。何かに悩んでしまったのを誤魔化すように、話を切り替えた。
「これから森を抜けると、しばらく荒野を走って街に出る。そこは僕が十五年暮らしてきた街だ」
「……街。たしか村よりも人の多いところ、よね」
「そう。でもそこだと、君の髪は少し目立ちすぎる」
グラジオはシオンに帽子をかぶせた。シオンは頭に乗っけられた帽子を深く被り直す。
「……ありがとう、グラジオ」
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