21.君の声から

 男はシオンを抱えたまま、疾風の如く森を駆け抜けた。無数の樽によって足止めを受けた男衆は、ついに誰一人として見えなくなる。

 ふと足を止めると、男はそこに目的地があるかの如く進行方向を変えた。しばし進めば、そこには大木の傍でじっと主の帰りを待つ賢馬けんばが一頭。

 「……すまないオラス。待たせたね」

その馬は男が歩み寄るとすぐに立ち上がり、親しげに男の元へと歩む。オラスとは、男の愛馬の名前であった。

 「さあ、オラスに乗って」

 男は抱えていたシオンをゆっくりと地面へ下ろした。彼女は男の声に頷くと、言われた通りにするべくオラスへ近づく。

 シオンは勢いよく跳ね、オラスへと飛びついた。しかし大きなオラスへ跨がるには、幾分か高さが足らない。

 見かねた男はシオンの体をそっと支える。そこでようやく彼女はオラスへと跨がった。対して、男は慣れた動きで颯爽とオラスへ跨がる。束の間男が合図を送れば、オラスは森の外を目指し湿った地面を蹴り上げた。




 中央広場に残された村人たちは、舞台の上で起きた突然の出来事にただ唖然とした。その場の誰もが状況を理解できないでいる中、シネラは母へと尋ねる。

 「なにが起こったの? ねえ、ねえお母さん? シオンはどこに行っちゃったの?」

息子に腕を引かれ、母はようやく応える。

 「……あの子はね、村のために命を捨てるはずだった。あの子は生贄だったの」

 「……いけにえ?」

 「そう。生きたまま、あの火の中へ飛び込む。一五年に一度、成人していない女の子が村から選ばれて、あの役目を全うするの」

母の傍に立つリージアは、それを聞いてみるみると青ざめた。もし私が選ばれていたなら、と想像してしまうのは無理もない。

 母は続けた。正確には、思わず口に出てしまったというべきだろう。それこそ本心だったのだから。

 「……あの子は死ぬ運命だった。でもあの子は逃げ出したの。そうよね、だってあの子が何度生きて何度死のうと……結局は人間と変わらない、普通の女の子なんだから」

リージアとシネラには、母が何を言っているのか分からなかった。それでもどこか自分を責めるように何かを語った母の姿は、二人にとって妙に印象的に焼き付く。




 森の中を一頭の馬が駆け抜ける。荷車に繋がれた身重な馬とは一線を画す快速で、爽快に木々を掻き分けた。

 流れるしばしの沈黙を引き裂くように、シオンはふとして口を開く。彼女には言いたいことがたくさんあった。彼女のすぐ後ろには、愛する人が居るのだから。

 「……ごめんね、グラジオ」

男に反応はない。それでも彼女にはもう分かっていた。その逞しい男こそ、グラジオであるということが。

 シオンは俯きながら続ける。

 「あのとき、"忘れて"なんて言っちゃった。私、嘘をついてた」

 男はその声へ返答すべきか迷うように息を飲んだ。顔を隠していたのも、何かの迷いの表れだったのかもしれない。

 それでも愛の衝動は止められない。男の迷いは、少女の一声で断ち切れた。

 「……ごめん。僕は君を、一五年も待たせてしまった」

 ついに男はローブを脱いだ。そこにいたのは、随分と大人びた顔つきへと成長したグラジオの姿。少し伸びた茶髪は変わらずくせ毛のままで、垂れた眉もそのままだった。ただそれでも目は少し細くなり、若干の男らしさをまとう。手綱を握った太い腕には、細かな傷跡が増えている気がした。

 シオンはグラジオへと振り向くことなく、下を向いたまま自分を責めるように零した。

 「ごめんなさい。私はあなたを忘れようとしてた」

グラジオは少しだけ明るい声で間髪入れずに返す。それはまるで彼女の抱いた負の感情を取り払うように。

 「ごめん。僕はこんなに歳をとってしまったよ。もう君の知っているグラジオじゃなくなった」

シオンは黙り込む。

 年齢なんて関係ない、などと安易なことは言わなかった。彼女の後ろから手を回して手綱を握ったグラジオは、まるで自身を嘲るように微笑んでいたが、シオンにはそれがどこか虚しく見えた。

 舞台の上で男を投げ飛ばした武術。木々を縫うように駆け抜ける巧みな馬術。あっと言う間に村を抜け出した強靱な脚力と、その間少女を抱え続けた屈強な腕力。少年が一五年もの年月を費やして身に付けたその全ては、今日の為だったのだろう。少年には、もっと別の夢があったはずなのに。

 さらってくれてありがとう、ただそれだけで良いはずだった。それでも少女の心のどこかに芽生えてしまった罪悪感は、そのたった一言をも封じてしまう。自身の運命が、少年の素敵な夢をも捻じ曲げてしまった。彼女はそう思った。

 結局シオンは黙り込んだままだった。地面を抉る蹄鉄の音だけが響く。

 そのときグラジオは、突如として口を開いた。

 「ねえ。もう一度君の名前を、教えてくれる? 君の口から、聞きたいんだ」

シオンは、自分がまだグラジオへ名前を明かしていないことを思い出した。こうして馬に乗って会話を交わすつい前まで命懸けの逃亡劇を繰り広げていたのだから、そんなことすっかり忘れてしまっていた。

 そしてシオンが答えを言おうと口を開きかけたとき、グラジオは滑り込むようにして言葉を付け足す。

 「……も、勿論もう知ってるんだ、君の名前。数日前から村に潜んでいたから、君を呼ぶ誰かの声を何度も聞いた。でもさ、その、君から聞きたいんだ」

少しだけ気恥ずかしそうにする男からは、ようやくあの日の少年の面影が垣間見えた気がした。彼女はそれを聞くと、難しく考えていた自分が馬鹿らしく感じる。だから彼女は、真っ直ぐな笑顔で応えた。

 「シオン。私はシオン、だよ」

少年は微かな幸せを噛みしめるように微笑む。

 「……シオン。素敵な名前だね」

 一五年が経ったからだろうか。距離感が掴めずにどこか緊張してしまう。それでも少女は、一つ勇気を振り絞った。

 「ねぇ、私からも一つ、お願いしてもいい?」

 「うん。お願いって?」

 「分かるでしょ」

男は少し微笑むと、ゆっくりと口を開く。

 「……僕はグラジオ。グラジオだよ」

それはかつて、イベリスのグラジオが紡いだ一幕の再現。二人は一五年前を思い出すようにしてささやかに笑った。




 「――ふざけるな! 輪廻の血族を見失っただと!?」

 森の中ではアジサの怒号が飛ぶ。目の前の男衆は、憤る彼女に肩を射貫かれて地面へ転がった。

 「……妾は輪廻の血族を許さない。あの化け物に教えてやるのだ。愛する人を奪われる苦しみを……!!」

 乱された長きに渡る生贄の慣習。瓦解を始めた自警団。村には不穏な雰囲気が漂う。そしてその日、ヒペリカ村の人々は初めて雲に覆われた空を見た。

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