18.愛を繋ぐということ
広大な畑に満遍なく水と肥料が行き渡ったのは、空が茜色に染まり始めた頃だった。シオンたち三人は父親に連れられると、家の前でコップ一杯の水を受け取る。
「……どうも、ありがとうございます」
シオンは玄関の側に転がった丸太に腰掛けた。のんびりとした、憩いのひとときを過ごす。
「いやー、ありがとうねシオンちゃん」
リージアとシネラの父親は、シオンの横に座ると気概なく言葉を交わしてくれた。その一方、玄関から伸びる道の向こう側に広がる小さな芝生で寝転んでいる。シオンはその様子に視線を奪われたまま言葉を返した。
「いえ。こういうの初めてで、楽しかったです」
芝生から起き上がったシネラはリージアの側に置かれたケトルから、飲み終えた空のコップへ水を注ぎ始める。大きなケトルの口からコップへ慎重に水を注ぎ入れるが、どうやら彼はコップから水が零れない寸前を狙うようだ。まだたっぷりと入った重たいケトルから、ほんの少しずつ水を移してゆく。しかし案の定、コップは決壊した。飛び散った水がリージアにかかる。シネラは最初からそのつもりであったかのように笑うと、飛び起きたリージアは弟の頭をそっとはたく。そこから繰り広げられたのは、喧嘩と呼ぶには可愛いじゃれ合いだった。
子どもたちの気が逸れているの見計らってか、彼らの父はシオンに気になっていることを尋ねた
「シオンちゃんはさ。どうして家の外へ……」
「ええっと、それは……」
「ああ、ごめん。忘れてくれ」
「きっと、イベリスのおかげでしょうか」
イベリスとは生贄でありながら、村を捨てた少女の名。だからその少女の名は、どこか忌避的な言葉となっていた。
彼は久しく聞いたその名に驚く。それでもシオンは気にせず語り続けた。
「イベリスは村が嫌いだから逃げた。だからシオンには、村を好きになってもらおう。そうすれば生贄が村のため命を捧げることに迷いが無くなる。きっと長老様は、そんなふうにお考えなのかもしれません」
男は少し俯く。覚悟を決めると、目を逸らし続けてきた事実に立ち向かうべく、重たい声色で語り始めた。
「……十年前のあの日、僕はまだ子供だった。君が村を飛び出したことを後から聞いて気づかされた。君もまた人間なのだと。僕らと同じで、生きたくて死にたくないのだと」
シオンに返されたのは、まるで贖罪のような言葉だった。そして彼女はそれに対し、ただ真実を告げる。
「死ぬことは、怖いです。聖火台に落ちて、為す術無く体が焼け落ちてゆく感覚。もう何度も経験したはずなのに、慣れることはありません」
男はそれを真っ直ぐに受け止める。少女の命と村の平穏を両翼に据える、悪魔の天秤を恨みながら。
シオンは言葉を付け足す。もうそれが本心なのか、はたまた苦悶にもがく男のために繕った
「でも怖いのは、その生に満足できなかったときだけなのです」
そして気づけば、またあの少年について言及していた。
「――そして私はそれを、ある人から教わりました」
「その人って……」
「はい。私が生きる長い時間の中で、初めて愛してしまった人です」
シオンは続ける。
「でも、もう大丈夫なんです。あれから一〇年。彼ももう二五歳です。誰かを愛して、家族ができて。それはそれは幸せに生きているはずです」
「……そう、だね」
「長老様の目論見どおりかもしれません。今日ここに来たことで、私の幸せはこの村を守ることなのだと、思い知らされた気がします。村で紡がれた愛が次の世代に繋がれ、それを見守り続けることが、私の幸せなのかもしれません。だからきっと、私はどこへも行きませんよ」
シオンはありのままを語った。そしてここから男に返答を要求するのは酷だと思い、おもむろにその場へ立ち上がる。
「今日はお世話になりました。そろそろお家に帰ります」
リージアとシネラはこちらを向くと、思い思いにシオンへ声をかけた。
「えー、もう帰っちゃうの?」
「ありがとうシオン。次こそ一緒に遊ぼうね」
シネラはこちらへ手を振る。シオンはそれを返すと、彼女らの父に一礼してその場を去った。
シオンは帰路についた。少し暗くなってきた道をひとり歩んでゆく。いつもは窓から見ていた夜景が、今は歩みを合わせて動きながら瞳に映る。そんな些細ことでさえ、彼女の瞳には印象的に映った。
「――人間との馴れ合いは楽しかったか? 輪廻の血族よ」
景色に酔いしれていたそのとき、その時間を切り裂くようにして声がかかる。シオンはその少し低い女性の声色の方へと振り返る。そこには佇むのはアジサ。十年の時の流れを感じさせない妖艶な見た目は、もはや不気味な美しさを纏う。
「あ、あなたは?」
シオンは恐る恐る返答した。
「化け物に名乗る名は持ち合せておらぬ。ああ、そうそう。強いて言うのなら、お主がそそのかされた男の脚を射貫いた者とでも呼ぶがいい」
アジサはそう告げると、シオンの反応を楽しむようにほくそ笑んだ。しかしシオンが彼女の望んだ反応を見せることはない。それでも言葉には、自然と怒気が宿る。
「そう。あなたが……グラジオの脚を」
「ああそうだ。妾が奴を射止め、貴様らのくだらぬ策略を打ち崩した」
シオンは口ごもった。アジサは容赦なく続ける。
「分からんな。どうして長老殿は
「……私はもう、逃げませんよ。この村に来てから三七〇年、今日ついに感じとったのです。ここに住まう者たちの生活と、その過程で育まれる素晴らしい愛を。私はそれを守りたい。だからもう、逃げません」
それを聞いたアジサは声を上げて笑った。ようやく落ち着くと、笑い涙を拭うような素振りを見せる。
「結構結構。生贄らしくなってきおったのう。なるほど、これが長老殿のお考えであったか」
「……あなたは、ハイドレジアに似ています。見た目だけなら」
「誰かも分からぬ者の名を挙げても意味などない。
シオンはアジサに背を向ける。そのまま家の方向へ歩を進めた。目の前の人間との対話が不可能だと思ったから。
このまま相手にせず帰ろうとしたそのとき、アジサの一言はシオンの足を硬直させた。
「あの
シオンは体をそのままに、視線だけをアジサに向ける。怒りを貼り付けながらも興味を隠せない様子の少女に、アジサは口角を上げた。
しかしそれは謀略だった。女はシオンに近づくと、目を見開き嘲るように言葉を紡ぐ。
「あの
ついにシオンは怒りを露わにする。それは彼女の長い生の中で、初めて抱いた感情だった。
「……分からない。どうしてそこまでやるの!」
女は怯むことなく突き放すようにして答えを述べた。
「妾は村を守る男衆の者だ。村を脅かす面倒は消さねばならん。化け物の分際で面倒を起こす
シオンはもう返答をやめた。視線を女から逸らすと、そのまま家の方角へ歩を進める。振り向かずとも、アジサが醜悪な笑みを浮かべているのが分かっていた。
○フリージア
科・属名:アヤメ科フリージア属
学名:Freesia refracta
和名:浅黄水仙(アサギスイセン)
別名:フリージア、香雪蘭(コウセツラン)
英名:Freesia
原産地:南アフリカ
花言葉:全般「あどけなさ」「純潔」「親愛の情」
黄「無邪気」
白「あどけなさ」
赤「純潔」
紫「憧れ」
英語「innocence(純潔)」「friendship(友情)」「trust(信頼)」
○シネラリア(サイネリア)
科・属名:キク科ペリカルリス属
学名:Pericallis × hybrida
和名:シネラリア
別名:サイネリア、蕗桜(フキザクラ)、富貴桜(フウキザクラ)
英名:Cineraria, Florist’s Cineraria
原産地:北アフリカ、カナリア諸島
花言葉:全般「いつも快活」「喜び」
英語「always delightful(いつも愉快)」
※引用『花言葉-由来』https://hananokotoba.com/
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